『エラスムス』(1924)

読了。ホイジンガ(1872−1945)の著作ゆえ、当たり前のことかもしれないが、名著である。エラスムス(1469?−1536)の複雑で繊細な人間性を丹念に描き出しつつ、その思想の射程、社会への影響などを歴史の大状況のなかに位置づけている。訳が良いのか、雄弁な叙述である。気になった記述を(これでも)厳選して引用しておく。

 われわれはすでにエラスムスのなかに正しい人間は一定の形式と規則を不要なものにするほど善良であると見なす楽天主義の開始があることを見ている。『ユートピア』におけるモーア、またラブレーの場合と同じく、エラスムスにあっても、すでに自然に対する信頼が語られている。自然は人間を健全に造り、われわれが信仰と神の畏敬に満たされている限り、これに従って間違いはないというのである。
 自然なものに寄せるこの信頼と、単純で合理的なものに対する憧憬に合わせて、エラスムスの教育的、社会的な思想が成立する。この点において、エラスムスは遥かに時代に先んじていた。エラスムスの教育理想をもっと詳細に論じることは極めて面白い試みであろう。それはすでにほとんど完全に十八世紀のそれである。子供は遊戯をしながら、その心に楽しいものを使って、絵によって学ばなければならない。その欠点は静かに訂正しなければならない。鞭を振い、毒舌を浴せる学校教師をエラスムスは嫌悪する。その職務だけが聖なる尊敬すべきものと思われる。教育は誕生の時からはじまらなければならない。おそらくエラスムスは、ほかの場合と同じように、ここで古典主義にあまりに大きな価値を置いているかも知れない。友人のピーター・ジャイルズにむかって、二歳の息子に古典語の初歩を教え込めといったのは、これが可愛いまわらぬ舌で、ギリシア語とラテン語の挨拶を父親にすることができるためであった。しかし何という温和さと明確な良識が教授と教育に関するエラスムスの発言から輝いてくることであろう!(179)

このような温和さと良識がもたらす「楽天主義」の面は、ルター派と教会との間で彼がとった位置どりにも表れていたといえる。エラスムスは、「自分の文献学的批判的方法がどれほどに教会の構造の基礎を揺り動かすか、おそらくはよくは悟らなかった」のであり、「聖書が遥かに近づきやすいものになったこと」を素直に悦んでいたにすぎなかったのである(185)。

 宗教改革のはじまった頃、エラスムスは大きな誤解の犠牲になっていた。彼の微妙な、審美的な、飛翔する精神が、信仰の最奥の深淵も人間の社会生活の苛烈な必然性も理解しなかった事実の結果である。彼は神秘主義者でも現実主義者でもなかった。ルターはその両者である。エラスムスにとっては、教会と国家と社会の大問題は簡単なものと思われた。旧い、原始の、まだ穢れのないキリスト教の根源に帰ることによって、それは解決される。原始復帰と浄化が必要なのであった。(217)

しかし、エラスムスはたんに聖人君子だったのではない。彼は、けっして表面化することのない激しいパトスを抱えていた。『愚神礼賛』における風刺の精神に、それは明らかである。ホイジンガは、このようにまとめている。

 人生の喜劇のなかで仮面を剥ぐものは、追い出される。人間の生のすべては一種の芝居ではなかろうか。……真に賢い人はすべての人と交って、その痴愚を軽く見過し、自分も彼らと同じように気軽に間違いをすることだ。……
 人間のあらゆる行動に必要な推進力は、痴愚の姉妹<フィラウティア>、つまり自己愛である。自分を楽しませないものは多くを完成しない。この生の薬味をとり去ってみよ、雄弁家の舌は熱を失い、詩人は笑殺され、画家はその芸と共に滅びる。
 矜持、慢心、虚栄の衣をまとった痴愚こそは、この世で高尚、偉大と思われている一切のものの隠れた弾条である。顕英の官職と祖国愛と国民的矜持を備えた国家、威風堂々の礼典、階級と貴族の迷妄――しかしこれが痴愚でなくてなんであろう。あらゆるもののうち痴愚の最たる戦争こそ、一切の英雄主義の起源ではないか。……(120)

ホイジンガは、エラスムスの少年期の手紙のなかに、「若いきわめて優しいこころ、たくさんの女性的な特質をそなえ、溢れる感傷と古典文学の空想に充たされ、しかも愛から遮られ、粗野で貧寒な環境に心ならずも置かれていた者」の姿を見出している(29)。だがエラスムスは、「その愛情において幾分常軌を逸することもありがちであった」ため、友人の愛情を思うようには得られず、「これからは思ったことを何でも言葉に出しては言うまい、もっと隠しておこう」と考えるようになったのである(29)。「センチメンタルなエラスムスは永久に消えてしまう、その代わりに才気煥発なラテン語学者が現れてくる」(29)。
こうしてエラスムスという人格のなかには、「偉大な面と卑小な面とが解き難く絡み合う」「二面性」が生じることになった(235)。それはルターとのやりとりを通じても見られたことだった。

……彼の二面性はその人間の奥底にまで達している。この闘争の期間彼の試みた発言は、恐怖と性格の欠陥に直接由来すると共に、またどんな人間にも、主張にも結びつくことを嫌う頑固な性向にもよるのである。しかしそのうしろには、相戦う見解というものは共に真理を完全に表明することはできず、人間の憎悪と短見とは人間の精神を眩ますものだという彼の深い、強い確信がいつもはたらいていた。そしてこの確信には、節度と洞察と愛情によって平和を救い出すことがまだ可能であろうという高貴な幻想が結び合っている。(236)

しかしホイジンガは、急進主義ではないかたちで穏和な希望を抱くエラスムスの姿に、まちがいなく敬愛の念を込めている。

 彼の言葉は古典の精神や聖書の意図を超えた何かを意味していた。それは教育と人間完成の信念、暖かい社会感情、人間性の善に対する信頼、平和な親愛と寛容とを同時にはじめて表明したものであった。<キリストはどこにも住みたもう。もし意図を欠いていないならば、敬虔はどんな衣服を着ていても実行できる。>
 すべてこのような観念と確信のうちにあって、エラスムスは確かに後の時代の先駆者である。十六、七世紀には、こうした思想もまだ底流にすぎなかった。十八世紀になって、エラスムスの解放の使信は成果を示した。この点において彼は最も確実に近代精神の――ルソー、ヘルダー、ペスタロッチをはじめイギリス、アメリカの思想家の――先駆者、準備者であった。エラスムスが近代精神の先駆者というのはその全面について言うのではない。……しかしひとが、道徳的教育と一般的寛容が人間を更に幸福になしうるという理想を信ずる限り、人間がエラスムスに負うところは多いのである。(315−316)

同じオランダ人として、第一次世界大戦後のヨーロッパ世界を前にして、ホイジンガエラスムスにたしかな知恵を見出しているようである。なお、人間の完成可能性をめぐる思想的・社会的背景については、これを起点にさらに考察を深める必要がある。

エラスムス―宗教改革の時代 (ちくま学芸文庫)

エラスムス―宗教改革の時代 (ちくま学芸文庫)