現実主義的教育

近代までのフランス教育史の特徴は、(1)持続する形式主義、(2)人間を対象とする教育、として見ることができる。これは、人間の精神的・内面的価値を重んじるキリスト教の影響である。ギリシア期においては、事物そのものに対する関心が強く存在していたが、キリスト教以降、そのような傾向は失われることになった。(1)は一見すると意外だが、人間性を単一の本質に還元する思考においては、論理学や弁論術などが大事になってくるのであった。ちなみに百科全書的教育もまた、キリスト教人間性が普遍性を帯びていることによって帰結されるものである。
すなわち、フランス教育史はずっと人間教育をその内容としてきたのであり、事物に関する教育=科学教育は構想されなかったのである。事物が語られる場合も、それは人間によって捉えられた事物であるにすぎなかった(ここから、「原典」教育が導かれた)。科学教育が構想可能となるためには、フランス社会はキリスト教の影響を打ち消すだけの社会的心性の変容を準備しなければならなかったのである。
そうした変容は、ドイツにおいて、ルーテル派をはじめとするプロテスタント教育によって開始されることになった。また新しい教育原理を明晰に語ったのはコメニウス(1592−1670)であり、彼の世俗教育、事物中心の教育思想は、ドイツを越えた広がりを見せた。ここで見られていた動きは、次のようにまとめられる。「社会に出たとき、いつかは課せられる任務を効果的に果たすことのできる、立派な市民をつくることが目的となってきた。生徒を特定の職業のために準備させるのではなく、生徒が後になって選択する職業によりよい条件で接近するのに役立つ知識を授けることが目的となってきた。今まで与えられていた純然たる精神的教育に対し、実生活の準備となるような地上的な教育を、更に並行して付け加える必要も感じられてきた。」(567−568)
こうした動向は、フランスでは一世紀遅れ、18世紀中ごろから進むことになった。ちなみにモンテーニュは、書物による教養を嫌悪しているが、これをコメニウスやライプニッツと同等に考えてはならない。ラブレーの項で述べたように、モンテーニュは、博学教育への消極的対抗策として懐疑的な教育思想を持っただけであって、そこに積極的な教育原理が存在していたわけではないからである。しかしフランス社会では、ラ・シャロテー『国民教育試論』、タレーランの国民議会に対する報告書、ロラン議長の『教育計画』(1783)などによって、新教育思潮が一斉に花開くことになった。これは「人文主義的教育思潮」に対して「実学主義的教育思潮」と呼びうるものであり、ここでは「教育制度と社会的機能は緊密な関係をもつべきであるという思想」(577)が、脈打っていたのである。