モンテスキュー

川枝先生(1996)。一度授業で教わったことのある先生。明晰このうえない叙述。

……アベのみるところ、「社会」というこの認識されたばかりの新しい問題領域は、いわば、白紙に近い状態であり、人間のより幸福な生活を実現するため、実践理性を体現する行政府によって、無限に改変していけるものであった。最後まで空想的な「夢」という扱いしか受けられなかったあの無限定の改革主義は、この確信から生み出されたものである。/モンテスキューの関心は、アベ・ド・サン=ピエールによりその存在が発見されたものの、十分な照明を当てられないまま放置された「社会」そのものの分析に向けられる。そこでモンテスキューは、むしろ、彼の目前にある社会秩序がすでに十分な合理性を備えたものであるという経験的事実に魅了されることになる。その結果、容易に想像のつくように、現存する社会をその一部分でも変化させることが予想外の結果を生むのではないかという、強い警戒の念が表明されることになる。「私は、いかなる国であれ、そこにすでに確立しているものを批判するために、この著作を書くのではない。それぞれの国民は、ここに、自国の諸格率のよってたつ理由を発見するであろう。そこから、ごく自然に以下の結論が引き出されるであろう。一国の全体構造を一瞥のもとに見抜く天才をもって生まれた幸運な者以外は、改革を提案すべきではない、という結論がである」。「無知蒙昧の時代には、とてつもない悪を犯すときですら、何の疑いも抱かれなかった。だが、啓蒙の時代には、このうえない善事をなすときですら、身が震えるのである」(EL preface)(172-173)

保守主義者は、(1)「社会」に備わる自律的な秩序性に意識的であり、ゆえに(2)革新主義者や進歩主義的教説を信じる大衆の策動に対して警戒的であり、必然的に(3)エリート主義的・貴族主義的思考に接近する。この3要件はたがいに密接に連動しているので、どれかが欠けるということがあってはならない。そしてさらに突きつめれば、「大衆」の情動的な行動をも、自律的な秩序のうちに組み込むようなポジティヴな機能的志向性が欲しいところである。だがそうなると、保守主義ファシズムが近づくことになるのは不思議である。進歩主義的なファシズム思想が徹底されると、それは保守主義へと反転するように思われる。