てか、いつから私はメール送信マシーンになったのだよ。機械人間だよ、これじゃまったく。

EPFを50ページだけ読んで、一矢報いたことにする、これから始まる虚飾の人生。
ルネッサンス期(16世紀から18世紀末)の教育の特徴といえば、この時期から教育思想が芽生えたということなのですが、逆にいえば、それまでの時代は教育思想などというものはなく、それらはまったく無自覚に、無意識的に発展してきたものにすぎなかったのでした。中世の教育が文法に見られる形式主義的なものであったことは以前も書いたとおりですが、中世の真骨頂は、教育制度が教会制度から派生する形で出現したことであり、自覚的に語られた教育思想というのは、その時期にはまだ存在しなかったのですね。
そのようなルネッサンス期の教育思想の画期性が見られた背景的原因は、(1)民衆生活を中心とする社会経済的発展、(2)民族国家の成立によるキリスト教教義の相対的地位低下、ですが、これはまあ難しい話になるので措いておきましょう。
ルネッサンスの教育といえば、ラブレーとエラスミスですね。この二人は、教育思想を具体的に展開した人物ですが、たがいに対立的な思潮を提唱していた点で注目に値いします。ラブレーは、ご存知『ガルガンチュア』、『パンタクリュエル』などの著作で、旧教育を嘲笑的に扱いつつも、自然的な善性に基づく、非拘束的な人間的本性の全面的開花を称揚しました。その際、ラブレーに特徴的だったのは、彼がこのような非制約的な人間的善性の伸張を、博学、つまり知識の全体の学習によって実現しようと考えたことです。現代的にいえば、これは少し変ですが。「詰め込み教育」が、自然そのものであるというのは、いかにも奇異な感じがしますから。しかしラブレーは、あらゆる実証的知識を習得することが理想の教育内容であると、信念をもって考えたわけです。
一方、エラスミスはその点でまったく違います。というのもエラスミスは、教師にはラブレーと同じ博学を要求しますが、それが生徒にとっても学習されるべきものであるとは主張しないからです。エラスムスによれば、知識は教育の目的とはならない、それは単に手段であるにすぎないのです。
では、エラスミスは何を教育目的だと考えたのか?彼が理想の教育内容であると考えたのは、古典語(ラテン語)をベースとした言語教育であり、表現能力を高めることによって高度な趣味を身につけることでした。つまり、教育においては、ごく簡単な古典文芸作品の短いフレーズが、きちんと生徒に習得されればそれでよいのです。もちろん、教える側の教師には、それがなぜ文芸的価値をもつかの審美的評価能力が要求されますから、あらゆる意味での知識が必要になります。それはラブレー型万能人間を評価するルネッサンスの思潮と軌を一にするものでもありました。しかしエラスミスは、優雅な文体を身に付けることで、当時伸張しつつあった新興階級における貴族的趣味の習得欲求に応えうるような、教育的理想を主張することになりました。フランスにおけるラテン語重視の教育伝統、また文体教育の歴史的起源は、まさにこのエラスミスの教育思想に求められることになるのです。
どうでもいい糞メールを書きなぐる調子で、書いてみた。無修正。自嘲。ホイジンガの『エラスムス』についてはこれ→http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051031