経済学史入門

大河内先生(1970)より。

  • 重商主義の長い期間を通じて、彼らにとっての富とは金または銀、一般に「財宝」であり、これを獲得する手段は長期、短期の視野の差はあったとしても、外国貿易であった。そしてそれを獲得する場所は、もっぱら海外市場でなければならなかった。(16)

封建社会が崩壊したのち、どのようにして国富を増大させるかという課題にせまられ、国内労働市場の窮乏もいまだ明らかではなかった当時においては、安い労働力を用いた対外貿易の充実が有効な政策であると考えられた。
一方、フランスでは、重農主義が見られた。ルイ14世以後のフランスでは、対外戦争による戦費の累積、国王貴族らの奢侈により、農民に対する租税の増徴が顕著になっていた。ケネーは、「製造業や商業のような産業は『不生産的』」であると考え、農業のみが「自然」が生産に協力するという点で、富をもたらす生産的産業であると考えていた(19)。これによってケネーは、不生産部門が、再生産余力を残して、どこまで消費可能であるのかを解明しようと試みたのである。
重商主義に比べて、「再生産」という視点を取り入れた重農主義は、格段に優れた経済学的思考であったといえる。

  • 重農主義思想の場合にはケネーの「経済表」がよく示しているように、経済社会は年々循環するものとして理解され、年々生産されたものが――特権階級の手による浪費などを含みながら――年々消費され、その一部が翌年の生産のための元本として保存され、再生産が継続されるという経済の循環、ないし再生産の思想が明らかに述べられていたという点で、重商主義のいかなる著作よりも、経済の総体理解という点での深さは比較の段ではなかった。(21)

さて、本格的に市場経済が進展したイギリスでは、A・スミスの思想が開花する(1776)。説明するまでもないので、気になった点について述べよう。作業分割としての技術的分業ではなく、社会的分業(生産的労働者/不生産的労働者…インテリなど)がいかに合理的に導かれるかについて、スミスは次のような説明を与えているようである。

  • ……こうして貯蓄する本能、節約しようとする人間性向は、いわばゆりかごから墓場まで一貫して、われわれ人間の利己的本能に由来してついてまわるものであり、この強烈な本能の発揮によって、年々の生産物のうち、個人的所得に割り当てられる部分よりも、生産的労働の雇用にあてられる資本に割当てられる部分のほうがおのづから大きくなるのだとスミスは説明している。(66)

人間的性向によって、社会を説明するという図式!!これは、マルサスの「食欲」と「性欲」にも該当することだ。また、マルサスが批判したゴドウィン『政治的正義』も、「理性」による性欲と食欲の抑制によって、平等社会がもたらされると説いていた。これらは、オーウェンの述べる如く、キリスト教の呪縛によるものなのだろうか?!
それはともかく、マルサスリカード穀物条例をめぐる理論対立は、やはりスリリングというほかない。マルサス重農主義思想の影響があったためか、地代は自然の賜としての土地が富を産出することによって発生すると考えていた。一方、リカードは、地代は「つくられた富に対する、土地の独占的所有者が要求する一種の請求権にほかならないもの」であると考えていた。つまりリカードは、地代を次のようなかたちで概念化していた。

  • 彼によると、人口の増加に伴って、いよいよ条件の悪い土地が交錯されることになるが、穀物価格は最劣等地のコストによって決定される結果、それよりも優良な土地については、その分だけの生産物の価値に相当する余剰を、地代という別個の所得として、土地の所有者に与えられることになるから、人口の増加と地代の増加とは同一歩調で進むことになり、而かも地代は独占的な土地所有という事情を根拠にして、生産物に対して土地所有者が要求するものであるから、いわば不労的性格の所得と判断してよかろう、とリカァドォは言う。(29)

最劣等地うんぬんかんぬん、ってとこがよう分からんけど。
まあとにかく、マルサスが土地所有者の権利擁護を主張して、「地代」の正当性を楯に、土地所有者の購買力を高める保護貿易を唱えたのに対し、リカァドォは産業利潤の確保という原則を訴え、ナポレオン戦争後の経済不況の原因は、まさしく保護貿易によるイギリス経済の弱体化にあると考えたわけですわ。