50ページ読書

昨日のエントリを読んで、「ははん、ラブレー詰め込み教育で、エラスムスは文芸教育を主張した趣味人なのだね」と思った、そこのあなた。早とちりはいけません。「50ページ読書」の結果報告。
博学を教育の至上価値としたラブレーと、古典的文芸教育を至上価値としたエラスムスですが、道徳的な面でいうと、ラブレーの方が優れていました。知識に対する負担は重かったわけですが。
当時はペトラルカみたいに書簡での知的交流がブームでした。エラスムスは、そうした貴族的精神環境のなかで、少数の選良に向けられた教育的メッセージを発信していました。何てったって趣味の教育ですから。貧乏人は放っとかれてたわけです。ところが、中世のスコラ哲学ベースの教育と比較すると、これは道徳的には劣ったものでした。というのも、事物の認識を深め、それへの対応を可能にする実践的意味をもっていたのは、明らかに討論による中世教育の方であり、エラスムス型教育は、奢侈的かつ美的、換言すれば、理想のウソ世界に遊ぶことが目的だったにすぎなかったのです。すなわち、それは現実への行動的介入を可能にするものではなかったわけです。くわえて、エラスムス式教育には、趣味の洗練を競う競争主義が教育原理だったという限界もあり、これも道徳という意味では、明らかに問題を含むものでした。
では、ラブレーはどうだったか。「審美的であるがゆえに現実への批判能力が育成されない」というロマン派芸術にも通底する、こうした教育上の欠陥は、ラブレーにおいては、いくぶん緩和されていました。なぜなら、中世、キリスト教とともに誕生し、ルネッサンスになってやや後退したかに見える道徳性(=自律性を伴った義務の観念)は、ラブレーの博学教育のなかでは、まだ完全には死に絶えてはいなかったからです。そもそもラブレーが博学を求めたのは、人間が無限なるものに到達しようと試みることで、みずからの小ささを思い知ることが重要だと考えたからです。ラブレーにとっての神は、「無限な理念の天球」、すなわち広大無辺な自然とも等しいものでした。したがって、軽薄な虚栄心にもとづくエラスムス式教育の特徴はラブレーには見られず、そこでは、よりいっそう道徳的で、自らを律する道徳的特性を見出すことができたのです。