国民学校について

先日、神保町の「ろしあ亭」で、隣の女性二人組が残したご飯に文句をつけている初老の男性がいて、連れの妻とおぼしき女性が、「すみませんね、この人が小学校だったときには、食べるものが何にもなかったの」とフォローすると、その男性は、「国民学校!」と律儀に修正を求めたのだった。高島俊男はこう書いている。

 小生は、国民学校の世代である。
 昭和十六年の四月から同二十二年の三月までちょうど六年のあいだ、こんにちの小学校にあたる学校は、「国民学校」という名前であったのだ。
 わたしは、昭和十八年の四月にこの学校にはいった。三年生の八月に敗戦。そして五年生になる時に、学校の看板が「国民学校」から「小学校」にかわった。これを見て、「小さな学校とはなんとなさけない」と屈辱を感じたものだ。(245)

以下は、国民学校に関する重要記述。

 国民学校というと、アメリカとの戦争のために、子どもに軍国主義教育をほどこすことを目的としてつくられた学校のように思っている人があるが、そうではない。
 国民学校の設置がきまったのは昭和十三年のことであって、もちろんまだアメリカと戦争をはじめる予定はない。三年間の準備をへていよいよ発足したのが上述のごとく十六年四月だが、この時にも、その年のすえにアメリカとやることになると予測できた日本人はほとんどいなかった。(246)

つまり、国民学校が発足してから戦争が勃発したという歴史のために、あたかも国民学校が戦争のための学校だったかのような誤解が生じているわけだ。
次に、戦後教育との連続性について。

 ……義務教育は明治初年の「学制」にはじまって、その年限は最初は一年、ついで二年、三年とのび、明治三十三年に四年、同四十年に六年となり、これが長くつづいた。
 その後大正から昭和にかけて、義務教育をおえたあと中等学校に進む者がいちじるしくふえ、中等学校に行かないまでも高等小学校(これは二年)までは行くのがふつうになったので、国民学校令では義務教育の年限を八年と定めた。ところがこれが完全には実現にいたらぬいちに戦況が悪化しやがて敗戦となったので、あらためて昭和二十二年から九年と定めて、それがこんにちもおこなわれているのである。
 また、「子どもの発達段階に応じた、興味のもてる教育内容」とか「個性尊重の教育」とかも、戦後教育が国民学校からひきついだものである。(247)

このような教育理念は、明治四十年頃をさかいとして「国家の時代」(明治)/「個性の時代」(大正)という区分が生じたことによって、生まれてきたものである。

 ……大正期はまた「子どもの時代」であった。子どもは純真無垢の聖なる存在、おとなはそれがうすよごれて堕落した者、という考えがおこってきた。そういう、子どもを理想化する風潮のなかで、童謡・童話の創作が空前の活況を呈した。
 教育のほうでも、子どもはこれを矯めることなく、そのままだいじにのばしてやるのがよい、教師は、立って子どもをみおろして教え導くのではなく、しゃがんで子どもと同じ目の高さになって、子どもの興味と個性を見ながら教えるべきだ、という考えが力を得てくる。これが「大正新教育」あるいは「大正自由教育」と呼ばれるものである。(248)

したがって、国民学校とは、以下のような特質を持っていたといえる。

 大正新教育は、澤柳政太郎の成城学園にはじまり、澤柳の薫陶を受けた小原国芳の玉川学園にリードされて、教育界に大きな力をもち、文部省にもこれを支持する若手官僚がふえてくる。
 ところがいっぽう昭和になってから、「皇民科教育」を呼号する右翼勢力がのしてきた。
 この水と油のような両者が、いずれも単独では教育行政を制覇できず、文部省においてドッキングして、双方妥協の産物としてできたのが国民学校の構想だった。
 だから国民学校というのはたしかに奇妙なもので、政府の文書などを見ると「国体の本義」「皇国への道」「皇民の練成」「忠孝一如」というようなおそろしいことばかり書いてある。いっぽう教科や教員には自由教育の影響が浸透している。おたがいが他の一面には不満である。そこへアメリカとの戦争がはじまって、軍が教育の鼻づらをつかんでひきまわす、ということになったのだ。
 敗戦によって国民学校の右翼的一面は完全に消し去られた。自由教育の一面だけがのこる。戦後教育はそのレールの上を進むのである。(248−249)

うーん、自由主義教育の教育実践は、実験校、付属校などの名門校に偏っていた可能性はなかったのかなあ?あと、文部省の革新勢力は、開明的であったがゆえに戦争中も中等学校の英語教育を継続させたらしいのだが、その勢力図に関しては詳細に調査してみたいところだ。また、右翼的な軍のひきまわし、ということだが、鈴木庫三のケースはどう判断できるのだろうか?あれは、理想性と右翼性とが奇妙に一致した状態だったように思われるのだが…。いずれにせよ、総力戦体制下で云々……というのは、イメージからして単純すぎることは間違いなさそうだ。