N響に行く

気分転換にN響にいく。チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームス交響曲第2番」。指揮者、マティアス・バーメルト。ヴァイオリン、ヴィヴィアン・ハーグナー。
まあまあ普通の演奏だった。チャイコフスキーのは、メロディーの流れを聴かせるタイプの演奏。ブラームスの2番は、第一楽章が長すぎて、眠くなる。
今日はShutzの解説本を読了した。20世紀初頭の(ハプスブルク帝国瓦解後の)ウィーンにおける3つのイデオロギー状況が、ウィーン大学を中心とする知識人に大きな影響をあたえていたこと*1。法則定立主義か個性記述主義かで分かれた価値判断論争(ここには新Kant派の問題意識が共有されていた)のなかで、ベルグソンなどのフランス哲学に依拠しつつ、理念型概念のさらなる彫琢が必要だと考えられたこと。その背景には、Husserlなどの現象学、あるいはShutzの音楽への造詣があったのではないかと考えられる(個人的な読み込み)ということ。こういった点が、勉強になった。

*1:「ある社会変革の担い手や、その担い手が、どのようなものであるかを表現することが社会ガクの目標などではなく、社会ガクが行うのは、まさにわれわれが置かれている状況を、この学をつうじて、その学に触れる人々に理解させるということである。……Shutzの時代のウィーンにおいては、論理実証主義者は徹底した科学主義が、それを求める哲学者たちが世界の曖昧さを克服してくれると考えたし、社会民主主義者たちは、科学に基づいて社会を改良していくこと、そしてその担い手としてのプロレタリアートや党の役割を強調した。/こうした種類の社会改革理論は、形や表現を変えて、今も存在している。……Shutzの位置は、そうした改革や革命の主体の明示、ワグナー流に言えば、奇跡を起こしてくれる主体の提示ではなく、モーツァルト式に、われわれが置かれている状況を、われわれに理解させること、これが社会ガクの課題だとしているところにある」(63−64)。つまり、分りやすい理念でもって社会秩序を見ることは時代状況からしてリアルではなく(ゆえにParsonsとソリが合わなかった)、さまざまな理念のおかれている状況を明らかにしつつ、それらの間でどのような妥協が可能かを問うことが、Shutzの目的意識の根底にあったというわけである(もちろん科学への信頼が否定されているわけではない)。