『電車男』

ハイ、見て参りましたよ、映画版(2005年)。村上正典監督、山田孝之中谷美紀国仲涼子、木村孝江。ギンレイホール
ほとんどテレビドラマと同じなのだろうけど、完結したストーリーとして見ると、感想もまた違ってくるというわけでして、ええ。イライラしてくるんだよな、やっぱり。オタク蔑視、資本主義礼賛ストーリーですよ、これは。
まず、「オタクはオタクのままでは愛されない」という前提でストーリーが始まるのが、ダメ。やっぱ、そうなのか、仕方ないのかとは思うけれど、電車男みたいに、恋愛マニュアルをあたふたしつつも修得できる人間って、ほんとうはオタクじゃないんじゃないの?と思う。マニュアル適応能力がないから、オタクなんじゃないの?「電車男はオタクじゃない説」浮上。
で、電車男エルメスとの恋愛に成功するのを、応援しているヤツらがうざい。「頑張ればできるんだ」って感動ストーリーだけど、頑張れないから弱者なんだろ?オタクなんだろ?コミュニケーション弱者の実像に目をつぶっている、あるいは弱者に強者中心のイデオロギーを押しつけているという「鈍感さ」「非情さ」ゆえに、このストーリーはアウト。
製作者サイドもさすがにこれでは酷すぎると思ったのか、最後では唐突に「エルメスは本当はオタクとしての電車男が好きだった」というオチが明かされる。はい、ウソくささ、全開。電車男がなぜエルメスに恋愛し、また葛藤を感じたのかといえば、エルメスが、オタクではない普通の世界(つまり、恋愛資本主義の世界)の住人だったからだ。電車男エルメスが自分とは異質な世界を生きているからこそ、手の届かない相手として、魅力を感じたわけですよ。だったら、エルメスがオタクの人間を理解し、好きになる理由も、また無いといわなければならない。コミュニケーション能力の低さを露呈している電車男エルメスが好きになる理由が、まさか「優しかったから」というだけのことだったら、それはあまりに説得力がないだろう。
ということで、これは出来そこないのSFです。
では、このようなSFがなぜ人心を捉えたかの分析。
第一の理由、オタクという生き物への傍観者的関心が満たされるから。第二の理由、オタクの「純情さ」が、「お姫様ストーリー」としての恋愛物語にうまくハマッたから。第三の理由、オタク予備軍としての「もてない男」のルサンチマンが救済されるから。第四の理由、ネット社会という装置が斬新だったから。第五の理由、三十代負け犬女とオタクとは恋愛市場で価値が下落しているペアなので、これがくっつくというストーリーは人びとに安心感をあたえるから。
まあ、第五の理由はちょっとイジワルな見方だけど、総じて「頑張ればなんとかなる」っていうイデオロギーこそ、「なんとかならないの?」と思いましたね。はい。電波男風にいうと、電通の仕組んだ罠におめおめ引っかかるなよ、って感じでしょうか。