『幻の漂流民・サンカ』

今日は宝くじを買った。空気が乾燥しているせいか、紙で手を切った。
前に読んだ本だけど、いちおうメモしとこっと。
奈良県下北山村の『下北山村史』には、サンカについての記述があり、貴重な資料となっているらしい。「奈良にはチベットがある」といわれるくらいで、熊野地方の下北山村もほとんど秘境といってよい山深さなのだが、そんな山中にもかつては東熊野街道を通って、エベッサマ(人形まわし)・エンコマワシ(猿回し)・サエモン(祭文語り)・チョンガレブシ(祭文と同系統で浪花節の前身)・マンザイ(万歳)・ノゾキ(のぞきからくり)などの遊芸民、職人、行商人が訪れたという。『下北山村史』によれば、「カツメリ」という川漁を営む季節行商人がいたということで、著者(沖浦和光)はそれが「サンカ」だといっている。カツメリは、春から盆頃まで川原に天幕などを張って暮し、同じ山の民であった村人とも、ウナギや籠などの売り買いを通じて、親しく接していたようだ。平地に住む「地下(じげ)」から「境界人」として見られていた村人とサンカの間になんらかの共通感情があったとしたら、それは大変興味深いことである。
なお、著者によるとサンカは、柳田國男南方熊楠との論争以前に主張していたような超歴史的存在(=古代残存説)ではなく、「クグツ」「坂の者」の中世起源説でもなく、18世紀末の天明の大飢饉および19世紀の天保の大飢饉において発生した、流浪の民であるということだ。
また佐藤先生も解説で整理しているように、これまでしばしば語られたサンカ幻想は、1930年代の三角寛の大衆サンカ小説によって生み出されたものであって、「大衆的読者の成立」のなかで芽生えたエロ・グロ文化への社会的欲望のなかに、改めて位置づけ直されるべきものである。
その意味で、「近代国家の人間管理の装置とテクノロジーそのものが、サンカという漂白民の幻の形成に大きく関与している」(389、佐藤先生)という本書の指摘は重要であり、サンカの漢字表記が「山に潜む盗賊」の意であったことの背景には、警察という国家装置のまなざしや、大正9年(1920)10月に始まった国勢調査などの戸籍管理が関与していたのである。
ちなみに沖浦和光さんというのは、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』の対談で出てきたあの人と同一人物。http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051107

 戦時中の禁酒時代が青春期と重なったので、われわれの世代はアルコール類とはあまり縁がなかった。一杯飲み屋に入る代わりに、仲間たちとよく映画館に入った。週にニ、三回は映画館に足を運んでいたが、上京後一年目に池袋東口に「人世座」がオープンした。その座主が三角寛で、井伏鱒二横山隆一河盛好蔵永井龍男などが重役に名を連ねていた。……
 池袋であった集会の帰りに何人かで連れ立って、いつものように人世座に寄った。確か力石定一や安東仁兵衛らと一緒だったが、誰かが「おい、あれは三角寛だろう」と目で指した。着物姿の三角寛が車から降りて足早に映画館に入ってきたのだ。チラッと見かけただけだったが、あの独特の髪型とまわりを射るような鋭い目付きが今も頭の片隅に残っている。(289−290)

さらに付言するなら、柳田が『山人考』(1917)で主張した、「国津神」系が「天津神」系に征服され、<国津神系=先住民→山人>および<天津神系=渡来人→平地民>の二元的共存が成立したという「物語」は、もちろん間違った「物語」ではあるものの、「第三項排除」とでもいうべきナショナリティー構築の共時的構造として、そう誤っているようには思われない(190ページを参照)。他者なるものとしてのサンカ表象は、実際、ロマン主義的なかたちで現実化されていたわけだから。

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)