「マレビト論再考」

第四章では、マレビト論をめぐる折口信夫柳田國男の対立について、高取なりの見解が示されている。大変、興味深い。
柳田と折口の対談で、柳田が「あなたがマレビトということに到達した道筋みたいなものを、考えてみようじゃありませんか」と述べたのに対し、折口はこう答えた。

「……なぜ日本人は旅をしたか、あんな障害の多い時代の道を歩いて、旅をどうして続けていったかというようなところから、これはどうしても神の教えを伝播するもの、神々になって歩くものでなければ旅は出来ない、というようなところからはじまっているのだと思います。」
「……台湾の『蕃族調査報告』、あれを見ました。それが散乱していた私の考えを綜合させた原因になったと思います。……どうしても、我々には精神異常の甚しいものとしか思われないのですが、それらが不思議にそうした部落から部落へ渡って歩くことが認められている。……」(188−189)

一方、柳田はこう答えた。

「……いわゆるうかれ人の中には、今の言葉でなら物狂いのようなかたちで、人の心を動かしてあるいていたということは、旧日本の方には痕跡があります。つまり土地の割には人が多くなり過ぎるということが一つの原因で、幾分か後の時代じゃあないかと思う。最初日本人が日本群島にくるまで、必ずしも百人に一人、二百人に一人、そういうものが出て歩くという昔からの習わしでなくて、具体的にいえばある一つの社会変調が起こった後にはじめて起こるべき現象じゃあなかったでしょうか」
「……家々の一族というものが自分の祖先を祀り、自分の神様をもっているのならば、そのあいだにまずもって優勝劣敗みたいなものがあって、隣の神様はみなの願望によく応じられるが、こっちの神様にはその力がいささか弱いから少しくあっちのほうを拝むというようなふうがあって、それからstranger-god(客神)の信用は少しずつ発生しかかっていたのではなかろうか。すなわちはじめに自分自身の神様をもっている時代があって、それが交際縁組等によってやや相互に交渉ができてきて、優れた神ならばよその神様でも、客神でも祭ってもいい、というふうになったとみることができないでしょうか」(189−190)

柳田は、人口増大という「社会的変調」に、マレビト発生の社会科学的要因を見いだしている。つまり、マレビトは、発生論的な位置づけが可能なものだと考えられているのである。一方、折口は直感的に、共同体の存立と同時に「マレビト」的存在が見られるのだと主張する。高取が同調するのは、折口の方である。
それは高取によれば、前近代の共同体においては、「蒸発」「遁走」を必然的に導くような存立メカニズムが存在するからである。上で述べた「共同体的平衡感覚」および「ことよせの論理」は、「主観を客観にすりよせ、預託する」「客観的事物によって主観を象徴させ、代位させる」システムを作動させてきた(196)。しかし、そのシステムと個人が相容れなくなる場合、それは「拒絶反応とよぶしかないような、反射的で前論理的な自己主張の主体」を生むことになってしまう(198)。というのも、主観的表現が客観的な事物によって代位されるとき、反逆する個人は、主観的表現による抵抗も、客観的事物による抵抗も出来なくなるからである。分析的概念による反駁はもとより不可能であるうえに、禁忌意識が張りめぐらされた客観的事物もまた、その個人を心理的に追い詰めるものとなってしまう。
かくして、古代・中世・近世と、共同体から離れた個人は、発狂状態とでもいうべきかたちで遁世し、マレビト的旅人となった。折口の次の有名な言葉は、近代以前において通時代的であったマレビト的心性が、間歇的に現れたものだったと考えることもできる。(たぶん)

十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王ヶ先の尽端に立つたとき、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以つてなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなかろうか。(『古代研究』)(184)

折口といえば、加藤守雄『わが師 折口信夫』(朝日文庫)だが、これについてはまたの機会に。

日本的思考の原型―民俗学の視角 (平凡社ライブラリー (88))

日本的思考の原型―民俗学の視角 (平凡社ライブラリー (88))