『日本的思考の原型』

高取正男著。昨日読んだのだが、面白かった。「事的世界観」の出自を発見したような気がする。
宮本常一が、九学会連合の対馬調査で、村の区有文書を借り出そうとしたとき、その是非をめぐって、寄合が三日ほども続いたのだという。しかも寄合での協議は、議論というようなものではなかった。「まるで連歌会のように列席者が思いつくまま、連想によって転がしてゆく」、いわば「連想の環」とでもいったような話し合いが、交わされていたというのである(62)。高取はいう。

……生まれた村のなかで家の稼業を継ぎ、そこで生涯を送ってきた人たちが、せまい村のなかで毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをしなくてすませるように採用していた上記のような会議の進めかたは、かつて近代以前の社会に存在した共同体のすべてを象徴しているといってよい。体験にことよせながら自分の思うことを表明した寄合いの席では、村のいい伝え、むかしからのしきたりについて語り合うのも先例重視の懐古趣味ではなく、会議を先に進め、出席者の意思統一をはかるための重要な手段であった。結果として諸種の伝承がつねに村人の共有財産となり、久しく保持された原因にもなった。そして、論理の筋道だけで決着をつけることをひかえ、列座のもののすべてが自然に話題に参加するようにしむける。実際に発言するしないは別として、一座のものが共同でいくつかの議題をとりあげ、連想のおもむくまま世間話のようにして転がしてゆけば、話題がふくらむにつれ、すべてのものがそれに参加したという実感を抱くだろう。協議の結論よりも結論にいたるまでの過程を重視する姿勢がそこには貫かれ、それは村の成員すべてに疎外感を抱かせないためのゆきとどいた配慮である。(66−67)

「近代以前の共同体には、遅れた前近代的意識がある」と考えるのは近代人の習性であるが、「そのような共同体は、その存在が必要であった時代には、所属する人たちの手で慎重に育てられ、維持されてきた」ものなのである(67)。面識圏内で生涯をすごす共同体の村落民にとって、近代社会における権利−義務関係など、まったく重要ではない。むしろ、「理性の及ぶ範囲を超え」た、「村の成員個々の実存そのものに発する紐帯」に訴えかけていく知恵こそが、そこで必要とされるものだった。

個々の村落内に蓄積されたさまざまな経験、村落の共同を維持するための生きた体験は、理屈によって整理し、普遍化したらかえって生命が失われてしまう。ことわざのようなもので象徴的に示すのでなければ、生活の様式や型に凝結させ、それを無条件に共同体成員に習得させ、反射的な行為となってあらわれる習性にしないと、その真意は正しく伝えられなくなる。(69)

事態の本質を一直線にさししめすのを避けて、体験タン、先例、ことわざなど、もろもろのものにことよせて暗示し、象徴させ、黙示的な暗喩によって間接的に説き明かすのが、近代以前の共同体の論法であった。(72)

このような「ことよせ」の言語感覚、律動感は、たとえば方言などに息づいており、現代の私たちが役者の演じる方言に異和感を覚えるのも、そのような律動感が乱されるからだ、と高取は述べている。共同体のなかで育まれた言葉には、独特の生活上の平衡感覚が反映されている。したがって、同じ共同体を共有しないものの言葉は、その共同体の住人にとって、異和なものと感じられるのである。さらに高取は、次のような重要な指摘をしている。「ことよせ」の言語感覚が共同体の崩壊後に語られる場合、それは危険をふくむものとなるというのである。

……自然の災害や戦乱、その他の外部の要因によって個々の村落生活が破壊され、あるいは経済の進展にもとづく近代化で各種共同体の存立基盤が失われ、その無用の長物化がすすむと、そこに伝承されてきたことわざ群の束も解体し、そのひとつひとつが暴力的な力を発揮して人の日常に干渉し、抑圧したりする。……それを支える客観的根拠がなくなっているにもかかわらず、あたかもそれがあるかのようにふるまい、ことよせの論理がまかりとおると、それは人を思いがけないところにひっ張ってゆくデマゴギーになる。でなければ、成員個々の自由を抑圧する時代遅れの共同体的桎梏ともなる。(72−73)

ファシズムが農村的郷愁を利用したことは常識だが、「言葉の魔術的な力」の背後に、このような言葉に内在する「集合的記憶」があったことは重要な事実である。また「言葉」は、物や状況を定義する分析的概念装置である一方、物や状況に依存して成立するものでもあるということも、ポストモダンの哲学を理解する際に重要な知見だろう。近代の主観・客観二元論が「物的世界観」であるならば、プレモダンから汲み取るべきポストモダンの世界観は「事的世界観」である。
近代は、言葉の前者の側面に焦点をあわせて、思考してきた。その限界を乗り越えようとするならば(もちろん、しなくてもいいが)、前近代社会を近代社会の尺度から理想化するのではなく、前近代社会に内在的な理解のうえに、見直されるべき視点を探究しなくてはならない。イリイチやポランニーなどの仕事には、ある程度、そのような志向性が見られるだろう。また「近代の乗り越え」などという青臭いことを言わない場合にも、前近代社会の理解をつうじて、近代社会を相対化しておくことは必要な作業だろう。民俗学の魅力は、そこにある。