巨摩中教育

『地方公立校でも「楽園」だった』、読了。
なかなか興味深い、歴史的事例。文中でも述べられているように、1960年代半ばから1970年代前半までの山梨県の巨摩中学校の実践は、『山びこ学校』(1951)や東井義雄『村を育てる教育』(1957)とともに、戦後教育の「最良の遺産」の一つであったという。だが町長選などの政争に巻き込まれるかたちでネガティブキャンペーンが張られ、結果、教師陣の人事異動によって、その実践の試みは終了させられることになった。その背景には、山梨教組が利権化し、民間教育運動のメッカたる巨摩中との間に感情的対立が生まれたことも関係していたようだ(巨摩中の教師が日教組とダイレクトにつながっていたこと、など)。巨摩実践の切り崩しの歴史的プロセスを、教育をめぐる政治状況のなかに位置づけている点が読ませる。
しかし、「そもそも巨摩中の実践がなぜ成立しえたのか」についての説明と分析が欠如しているように感じられた。教組の口利きで巨摩をモデル地区にしえたのだろうが(人材の集中的配分などがあった?)、そこに集まっていた教師たちが民間教育運動(この場合は科学・美術)との関わりで、どのように日教組や県教組から見られていたのか、またそれについての教師たちの自己意識はどのようなものだったのかについての踏み込みが足りない。教師たちの「教育への真摯な情熱」ばかりが強調されているが、上記のような分析がないと、なぜ彼らが教組や教育委員会などから胡散臭く思われていたのか、本当の理由を知ることはできないだろう。加えて、著者は巨摩中の実践をあまりに賞賛しすぎているようだ。日教組の肩入れがあったことはおそらく事実なのだから、恵まれた条件下の恵まれた事例であることを、もっと対象化していて然るべきだろう。おそらくそうした肩入れが「特別扱い」のように感じられ、(たしかに理不尽そのものである)巨摩中バッシングへと繋がったのではないか、というのが私の推測である。
文章が読みやすいし、いろいろ考えさせてくれるという意味で、良書。それにしても「良い教育」というのは、①教師が惰性・怠惰・形式主義に陥らずに「わかる」授業を行い、かつ②生徒がそれを聞いてくれる、という二つの条件から成り立つものなのだよね(それを「情熱」とか言ってしまうと、理解がぼやける)。また、教育制度の客観的な全体像が、教育現場や地方行政において把握されていないために、制度が実質的に形骸化することになるという事実は、実はあまり指摘されていないことではないだろうか。