ARIESが右翼な理由

以前もちょこっと書いたことがあるけれど、Ariesはアクシオン・フランセーズのメンバーだったことがあるんですね。『<子供>の誕生』ですが、あれは近代以前の「自然」な学習、「自然」な世代関係のイメージを強調しつつ、実はフランス革命以来の啓蒙主義を批判している著作なのです。今井先生の著作からの引用。

……Ariesは、よく知られているように、王政復古を旗印とする右翼団体アクシオン・フランセーズのメンバーとして積極的に活動した一時期を持つ。保守主義の思想は、もともと18世紀の啓蒙思想やその帰結としてのフランス革命に対する反動として生まれたものである。啓蒙思想は人間理性の普遍性と実現可能性を信じた。そして、人間理性をこの世に実現するために、合理的な教育学的反省が不合理を残した生活に介入し、より理性的な次の世代を育成すべきだと考えられた。これに対して保守主義の思想家たちは、カトリック教会や王権に代表される伝統的権威、様々な中間団体を含んだ身分秩序、日常生活を規制する慣習等、合理的な再編成になじまない「自然的」なものの人間社会にとっての重要性を強調したのであった[…]。従って彼らの思想は、「啓蒙」を目指した教育学的反省の介入に対しては当然抑制的に働くことになろう。(139)

日本でも「江戸時代の寺子屋教育の復権」などという主張をよく見かけることがありますが、日本では近代啓蒙思想を内在的に経験しておらず、従ってそれに対する反動も中途半端なものとなっているように思われます。単なる「江戸趣味」とか。近代との原理的な対峙抜きに、近代思想の系たる保守主義もありえませんからね。
で、ここで今井先生が興味深くも指摘なさっていることは、こうした近代教育が批判されるとき、その言説形式のバリエーションはどのようなものとなるだろうか、ということです。もちろん近代を前提とする教育批判はきわめて多く見られます。その基本構図を確認しておきましょう。

近代教育学の<精神>としての教育(学)批判は、教育学的反省そのものの必要性、つまり教育が教育についての科学的反省によって批正され導かれるべきだということを疑わない。それは、教育学的反省によって編まれる人工的な配慮の網を、批判を重ねることによってますます強固かつ密にし、結果的に教育学的反省の存在理由を強化するという特質を持っている。(137)

これに対して、「近代教育学の<精神>を共有せず、教育的配慮の自己増殖に落着しないような教育学批判」が必要とされるわけですが、その一例が、IllichやAriesらによる「自然な教育への回帰」の主張だというわけですね。他にも例は挙げられていますが、あまりに機微に関わるので、続きは「なごみワールド:別館」にメモることにいたしましょう。みなさん、さようなら。バイバイ。