ダンディズムについて

ちょっと必要があって、ダンディズムについて考察してみる。
ボードレールは『現代生活の画家』という批評文において、「ダンディスムとは頽廃の諸時代における英雄性の最後の輝きだ」と述べた(195)。どういうことか。
まず重要なのは、ダンディズムがスノビズムの対抗戦略としての意味を持つという事実だ。流行に過剰に同調するスノッブは、まさにその他者との同調において、自己の基盤を危うくする。流行を追うことは、自己と他者とが同じになる振舞いを意味しているからである。
他方、ダンディズムは、自己の独創性を金科玉条としている。この独創性こそ、ボードレールが英雄性と呼ぶものに他ならない。だが、それはいかにして可能なのだろうか。そもそもスノッブの生きる流行の世界は、差異化による独創性の誇示で溢れているはずなのに……。
ダンディズムが、スノッブによる差異化のメタに立ちうるのは、そこに「美学」という領域が持ち出されるからである。スノッブは、他者との比較において、自己の独自性を確認する。しかし、ダンディーにそれは許されない。ダンディーが独創性を確保するのは、あくまで自己完結した審美的基準によるのである。
ボードレールは、ダンディーには有り余る金と時間が備わっていなければならないという。そこでは、他者を出し抜く必要(=有用性としての必要)がそもそも存在しなくなるからである。

これらの者たちは、自らの身の裡に美の理念を培養し、自らの情熱に満足をあたえ、感じ、そして考えることの他には、なんの本業をももたない。かくして彼らは、思いのままにまたきわめて多量に、時間とお金をもっているのだが、それなしには、せっかくの思いつきも一時かぎりの夢想に終わって、行動に移されることはほとんどあり得ない。暇とお金なくしては、色恋の沙汰も、下民の痴れごとあるいは婚姻の義務の履行でしかあり得ないとは、不幸にしてまったくの真実である。熾烈なあるいは夢想的な気まぐれとなる代わりに、色恋は嫌悪すべき有用のわざとなってしまう。(192)

またダンディーは、差異化の競争に参加する必要もないほど、差異化の作法に通暁していなければならない。競争という他者媒介的な行為に加わらないことが、自己完結した美学としての振舞いを可能にするからである。

ダンディスムとは、あまり思慮のない大勢の人々がそう思っているらしいような、身だしなみや物質的な優雅に対する法外な嗜好、というものでさえない。それらの物事は、完璧なダンディにとっては、自らの精神の貴族的な優越性の一つの象徴にすぎない。だから、何よりもまず品位に夢中になっている彼の目から見れば、身だしなみの完璧さは絶対的な単純の裡に存するものだし、事実、絶対的な単純こそは品位をもつ最善の方途である。(192)

かくして、ダンディズムとは次のような精神的態度のことを意味する。

それは何よりもまず、一個の独創性を身につけたいという熱烈な要求だが、礼節の外面的な埒の中にあくまでもとどまっている。自己崇拝の一種であって、他者の中、たとえば女の中に幸福を追求する心が絶えてもなお生き残り、錯覚と呼ばれるもののすべてが消えてもなお生き残り得るものだ。人を驚かすことの快楽、決して驚かされることはないという傲慢な満足だ。ダンディとは飽いて無感覚になってしまった男であるかも知れないし、悩む男であるかもしれない。しかし、悩む男であるとしても、狐に噛まれたスパルタ人のように微笑するだろう。(193)

「人を驚かすことの快楽、決して驚かされることはないという傲慢な満足」。この台詞は暗記ですナ。ボードレールによれば、このようなダンディズムは、スノッブの跋扈するデモクラシーの世界が貴族制を部分的に動揺させる、「頽廃の諸時代」に生じてくるという。それはそうだろう。ダンディズムは、スノビズムからの対抗戦略として意識されるものなのだから。