天才の話

昨日の天才の話ですが、「天才」という形象が生まれるようになったのは、ルネッサンスまで遡ってみると、こういう事情です。

人間本位主義の伝統において、この用語法(=「人間」引用者注)は、動物から、そして宇宙における存在の階梯に沿って位置づけられたその他一切の存在から区別された人間の、本性についての想定に基づいている。主体という概念によってこれに新たな定式を与えたのが、新人文主義の伝統であった。それによれば、「人間」だけが主体であり、主体が人間自身とその他一切の「基礎にある」、とされる。超越論的な理論の場合には、人間が主体とされることから、どんな人間にも備わっている一定の特徴さえ導き出される。すなわち、世界との経験的な関係における一定の総合能力、一定の規範的洞察、そしてとりわけ、個人がそれぞれに世界をわがものとし、わがものとなった内的形式たる教養を備えて世界と向き合う能力である。(36−37)

まあでも、これは嘘なんですよね。嘘というか、説明に無理がある。

…地球上に居住する人間はきわめて多数で、現在五〇億から六〇億の間に達し、増加傾向にあるという単純明瞭な事実に着目する必要がある。これは、人口統計の問題であるだけでなく、社会理論に課題を投ずるものでもある。これだけボウ大な数の人間がいるところで、たった一人の人間が社会にとっての意義をもつということは――社会自体がその人間を選び出したのなら別だが――考えにくい。マスメディアによる応援のおかげで一人の人間(たとえば、ゴルバチョフ)が特別な影響力をもつように見える場合も、社会の側から見ればそれは偶然であって、理論的には、あるシステムが一定の状況(たとえば分かれ道にさしかかる直前)において偶然に対し敏感になるのはなぜかという問題があろう。(38)

つまり、現代において、天才は社会が作るのです。