初期の教会と教育制度Ⅰ

著者は次のような断言から、歴史記述を始めている。「わが国の知的文明のすべての素材は、ローマに由来するものである」(50)。これはゲルマン民族に、知的と呼べるような文明が存在しなかったからである。しかし、ローマ文明とゲルマン文化とはやがて、「教会」を媒介に交流するにいたる。これは「教会」もゲルマン民族もともに奢侈を嫌い、禁欲主義的であることを好んだためであった。そしてここから、フランス教育の最初の萌芽が兆すことになる。それはキリスト教が――異教が、「神話を伴った儀礼的行事の体系」「漠然としており、矛盾にみちた、明白な義務的拘束力をもたないものであった」のに対して――「理想主義的宗教であり、観念の体系、教義の組織であった」からである(56)。つまり、体系化された「観念」や「感情」は素朴なかたちでは伝達されない。それゆえに、伝達手段としての教育が必要となったのである。アウグスティヌスなども自覚していたとおり、聖書がよりよく理解されるためには、学校組織が準備される必要があったのだ(ヒッポネの共同生活学校)。
なお、在俗聖職者だけにとどまらず、修道制度においても中央教会学区、修道院学校が整備されることになった。ここにはあらゆる身分の子弟が通学し、それ以後、フランス初等学校、大学、コレージュの歴史的起源をなしていった。また、このとき次の事実が重要である。すなわち、「学校は最初本質的に宗教的なものとして発足したが、他方学校の構成が確立するとともに、自然に漸次世俗的性格をおびるようになっていた」(62)。学校は、最初から「世俗性の原理を包蔵して」おり、それゆえフランスの教育界は聖性と世俗性の間を揺れ動くことになるのである(62)。(←教会は、ローマ社会の異教を斥けはしていたが、そこで培われた教義体系を理解するためには、異教文化そのものの理解が不可欠だったため、世俗的要素を取り入れざるをえなかった。)