初期の教会と教育制度Ⅱ

さて、キリスト教学校は、「出現とともに生徒に対し、その年令に応じた全人的教育を授けることを主張」することになった(66)。この後も継続されるこの傾向は、キリスト教そのもののなかにその原因を見出すことができる。すなわち、キリスト教は「魂の一定の態度、われわれの精神的存在の一定のあり方(ハヴィトゥス)」の形成を、その教義の本質にすえていた(68)。たとえば、「改心」に見られる恩寵は全人格的改変を導くものであるが、魂への働きかける啓示のように、教育は、全人格的影響を実現させるべきものとして構想されたのである。
このようにして、ほぼ4世紀にはゴール地方はラテン文化の知的環境を摂取することになった。しかしフランク族流入は、この歴史の歯車に逆回転をかける結果をもたらした。ここから8世紀にいたるまで、フランスでは文明の面でほとんど進歩は見られない。教会とその内部の学校のみが、わずかにその防波堤をなしたが、それもきわめて脆弱なものにすぎなかった。とはいえ、6世紀イタリアから生じたベネディクト会の影響で、聖書注釈論争にともなう知的影響は残った。また、東方教会の影響下にあったアイルランド教会も、ギリシア語の面で、知的なインパクトを持ちえた。これらの要素は、キリスト教文明圏を移動する修道士たちの交流をつうじて、その後の教育文化の土壌を無意識的に醸成することとなった。