カロリング朝のルネッサンスⅠ

こうした停滞状況を打破するきっかけとなったのは、カロリング王朝のシャルルマーニュ大帝による社会整備、とりわけその中央集権化だった。シャルルマーニュ大帝に影響をあたえたアルクインなどは、前述の宗教的土壌におかれたアングロ・サクソン教会から身を立て、王の設立した宮廷学校Ecole du Palaisの校長に任ぜられることになった(782年)。シャルルマーニュ大帝は、(1)言語研究のための学芸研究(思想の意義を重視)、(2)聖書理解のための言語研究、(3)聖職者の威信増大のための知的優位性の確保、などの点で教育政策に多大な貢献をもたらした。こうして、「新たな学校が中央教会、僧院、修道院のそばにどんどん建設された」(98)。制度体系は、教区の学校―中央寺院や修道院の学校―エリート向け模範学校・宮廷学校の三層構造であった。
そこでの教育内容の特徴は、「百科全書的教育」であった。これはすでに触れたとおり、「キリスト教にとっては、教育は個々の特殊の能力を発達させることを目的としたのではなく、精神をその全体において形成することを目的としていた」からにほかならない(103)。教科は、七つからなる人文学科であり、三科(文法・修辞学・論理学)と四科(幾何・算術・天文・音楽)のニ群に分かれていた。「前者は、人間の精神を志向し、後者は事物および世界を志向していた。前者は知性を一般的に形成し、知性に正常な形式、正常な態度を与えることを役割とし、後者は知性の内容を豊かにし、知性に素材を与えることを目的としている」(106−107)。前者を「人文学科」とするならば、後者は「現実学科」であり、これは18世紀フランスの教育問題の主要トピックとなる問題へと接続していく。