土井くん

僕の友達。極左だけど、心から尊敬している。人間として正しい。『世界』2006年4月号(P182−183)より。

「県外移設」論を批判的に考える

土井智義

 人々が非対称性を幾重にも刻印されながらバラバラに分極化していく現況の下で、いかに差別や抑圧をはね返す関係性を紡いでいくのか。それと同時に、いかに国家や軍隊というものに対して根源的に抗っていくのか。いま、〈沖縄〉にかかわることを通して状況を切り開こうとする場合、こうした問いが切実に求められているだろう。
 昨秋の「米軍再編」において吐き出された、「日米合意」という代物。この「合意」内容のなかでも重要な主題の一つは、普天間基地の「移設」問題だろう。普天間基地「移設」を名目にした辺野古沖への基地新設計画が、粘り強い抵抗運動によって頓挫させられたにもかかわらず、「沿岸案」という新たな基地新設案が日米政府によって表明された。
 当然のことだが、沖縄では「合意してない」という拒否の声が無数に渦巻いている。そして、沖縄からの代案や要求として無視しえぬ大きさを持つのが、基地の「県外移設」という主張である。
 昨年一一月に行われた世論調査によると、「普天間基地をどうすべきか」との問いに対する有権者の答えは、「本土」移設が二七・四%、国外移設二九・四%、即時閉鎖・無条件返還二八・四%、「沿岸案」七%、「SACO合意」の堅持五・六%であった(琉球新報二〇〇五年一一月四日)。私自身は、「県外移設」こそが解決策だとは予てより思わないが、それをいかに受け止めるべきかについては紆余曲折があった。だが、現在は批判こそが必要だと思っている。
 ひとまず、「県外移設」論の論拠を三つほどに腑分けしてみたい。稲嶺知事のように安保を肯定する立場からの要求、いわば保守による沖縄の現状批判としてのもの。あるいは安保自体には反対だが、見通しの立たぬ状況に耐えかねて国家が承認しうるような代案の提示として。さらには「沖縄人」としての立場から、「日本人」への怒りを媒介にして日本社会に「平等負担」や「痛み」を求める意見など。
 思いつくままに挙げてみたが、実際にはこれらが複雑にからみ合って現れていると思われる。しかし、全てに共通するのは、国家や軍隊の存在を問わないという点である。「県外移設」とは、沖縄の被抑圧状況への打開策が、国家を前提とする方向になだれ込むという点において、現在における「復帰論」と言いうるのではないだろうか。
 何よりも「県外移設」の即時的な目的は、沖縄からの基地撤去にとどまる。そのため軍隊の解体自体は、沖縄において二次的なものとならざるをえない。もしも軍隊の存在を問う作業が、移設した先の日本、あるいはアメリカにおいてのみ可能であるならば、沖縄「県」内で軍事基地廃絶と軍隊および国家への根底的な批判とを、同時に実行することは不可能とされるのではないか。
 より強く言うならば、沖縄には不可能とされる行為を、日本やアメリカのみが成しうるならば、そうした「力」の強弱を動かしがたい事実として固定した上での反軍事闘争は、沖縄の代行に過ぎなくないだろうか。いかなる思いに貫かれようとも、「県外移設」は、軍事力の解体を〈沖縄〉という位置から展開することへの禁止に、廻りめぐって近づいてしまう危うさがある。
 その意味において、本誌一月号の知念ウシさんの「日本人」への「呼びかけ」と森口豁さんの「ヤマトンチュ」としての応答は、その相互補完的な関係性において、沖縄と日本の非対称性を固定化しかねない「県外移設」論の陥穽に補足されていると、どうしても思われるのだ。付け加えれば、両者の議論には、個人の集合とは異なる国家への問いが欠落してはいないだろうか。
 「沖縄人」/「日本人」に象徴される、非対称に分極化する関係性に交渉すること。軍隊や国家を根本において批判する方法を探ること。この二点とともに、いま一度〈沖縄〉をめぐる反基地闘争を見つめなおす必要があると思う。

本人を知っている私にとって、ここでの政治的主張はどうでもよい。ただまた会いたいな、と思うだけだ。http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010411.html#2