岡崎次郎追記

ちなみに、夢野久作の秘書の紫村一重は、西田信春の拷問死を追究した人物であるという。この西田信春については、岡崎次郎が、「西田信春は、こんな私が惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である」と、次のように書いている。

昭和三十四年一月末、中野重治と石堂清倫との連名で「西田信春を偲ぶ会」の案内状がきた。私は欠席を返事した。次いで石堂から追憶文執筆の依頼状がきた。これにも応じなかった。私は、大局において西田と志を同じくしながら、なにもしなかった、なにをする勇気もなかった人間であり、彼から虚無主義者の烙印を押された人間である。そして自己反省からもこの烙印を正当なものと認めざるをえなかった。あの時世に、到底勝てる見込みのない戦いを、ただただ自己の信念から、戦わずにはいられなかった西田、彼の無残な死にざまは覚悟の上のことであり、超人的に強靭な精神力をもっていた彼にふさわしい。他人から非情と言われようと、なんと言われようと、私はそう思う。
その後、同窓会の席で久し振りに大槻に会ったとき、彼は、西田はいつも君のことを言っていたぞ、君はどうしてなにも書かなかったのか、と私を非難した。とっさに弁解の辞が浮ばず、にやにやして誤魔化した。(『マルクスに凭れて六十年』104−105)

「自分で自分に始末をつけること、これはあらゆる生物のなかで人類にだけ与えられた特権ではないだろうか。この回想記を書き終って、余りにも自主的に行動することの少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。…」(370−371)。岡崎次郎のこの末尾の言葉には、西田信春の影がちらついているように感じられる。