『夢野久作』

調子の悪い人は絶対に読まないように。気分が悪くなるかもしれない。でも私は今はこういうのが読みたい。「猟奇歌」より。

ニセ物のパスで/電車に乗つてみる/超人らしいステキな気持ち
誰か一人/殺してみたいと思ふ時/君一人かい……/……と友達が来る
水の底で/胎児は生きて動いてゐる/母体は魚に喰はれているのに
あの娘を空家で殺して置いたのを/誰も知るまい/藍色の空
たはむれに/タンポゝの花を引つ切れば/牛乳のやうな血しほしたゝる
ずっと前殺した友へ/根気よく年賀状を出す/愚かなる吾
よそのオヂサンが/汽車に轢かれて死んでたよ/帰つて来ないお父さんかと思つたよ  

鶴見俊輔夢野久作』。どうも何が書かれているのかよくつかめないが、たぶんここらあたりが重要なのではないかという場所。

……自分の秘書を杉山茂丸には紹介せず、頭山満には紹介した。その風格にふれてもらいたかったのだろう。『近世快人伝』に書いているように、頭山が「維新後の日本が西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが」、それ以上こまかく考えたのではないだろうと言っている。杉山泰道が頭山満とともにした思想は、この場から考えてゆこうという考え方だっただろう。世界の大勢がこうだというような、抽象的法則のように見えて、実は根底の薄い執念に身をまかせるのでなく、この場から未来への方向を見さだめようという考え方である。これは、民族主義の一種ではあろう。だが、頭山の場合はともかく、杉山泰道の場合は国家至上主義ではなかった。現政府の言い分をすべて正しいとして他人におしつけるという考え方でもなかった。杉山泰道をひきつけたのは、頭山がそのとりまきとちがって財力・権勢・名声を求めようとしない態度だった。(123)  

たしか頭山に炭坑経営を勧めたのは杉山茂丸だったが、この茂丸と泰道(=夢野久作)がどのような親子関係にあったのかが難しい。茂丸の家庭を省みない姿に反発した泰道は、生活人として生き、その思想性を物語のなかに封じ込めたのだと理解できるかもしれない。そしてそこで継承されていた思想性が、ほかならぬ草莽の志士としての天皇観であったとまとめられるかもしれない。

彼の作品に作者の生活をそのまま読みこむ人は、夢野久作を、玄洋社系の思想の持主と思うかもしれない。権謀術数にたけた人物で、斗酒なお辞せず、女性関係の複雑なくらしをしてきた人と思うだろう。だが、彼の日記を読んでも、彼の妻と子の回想を読んでも、彼は普通人としてはたらき、普通人として家庭をいとなんだ。彼の長男龍丸の書いたいくつもの回想録のどれにも、彼が彼の父茂丸について書いた文章の中にあるアイロニーはうかがえない。異常なのはむしろ、連日徹夜して強靭の原稿を書きながら…、夕食の時にはおだやかに家族を前にして、自分のでまかせにつくるおとぎばなしを話してきかせるという、そのおだやかさである。

その「おとぎばなし」は大そう気持ちの悪いものだったらしいが…。以下は、泰道の天皇観について。

龍丸は、中学校二年生のころ、父につれられて大宰府天満宮の近くの観世音寺をおとずれた。そこには、大黒様の木造がある。その大黒天は、まずしい百姓の姿で、大地をうつむきかげんに見て、悲しそうにしている。父は彼を、その木像の前につれてゆき、「龍丸、よく見ろ、これが大黒様の本当の姿だ。日本の天皇は、本来百姓農夫だったのだ。これをよくおぼえておけ」といつになくきびしい態度で言った。(78−79)

泰道は、「天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)は、猿の中のボス猿のようなものだ」といっていたそうだ。とはいえ、杉山家の天皇観に連続があったわけでは必ずしもなく、そのことで祖父の誠胤が茂丸に対し折檻するという事件もあったらしい。夢野久作「父杉山茂丸を語る」からの引用。

……そのうち突然にお祖父様の右手が揚がったかと思うと煙管が父のモジャモジャした頭の中央に打突かってケシ飛んだ。それが眼にも止まらない早さだったのでビックリして見ているうちに、父のモジャモジャ頭の中から真赤な滴りがポタリポタリと糸を引いて畳の上に落ちて流れ拡がり始めた。しかし父は両手を突いたままジッとして動かなかった。
お祖父様は、座布団の上から手を伸ばして、くの字型に曲がった銀象眼の煙管を取上げ、父の前に投げ出された。
「真直ぐめて来い(モット折檻して遣るから真直にして来いという意味)」
と激しい声で大喝された。
父は恭しく一礼して煙管を拾って立上った。その血だらけの青い顔が悠々と座敷を出て行く処で、私の記憶は断絶している。多分泣き出したのであろう。……(74−75)

この祖父が能キチガイで、その精神的影響もあったようだ。いずれにせよ、このような杉山茂丸の姿というのは、イメージとはだいぶ違うかもしれない。