『アセファル』

〔計画〕
七、普遍的共同体とは異なるどのような共同体――民族主義の、社会主義の、共産主義の、そして教会の――をも解体し、排除するために闘うこと。
八、諸価値の現実性、そこから生じる人間の不平等を明確にして、社会の有機的性格を認識すること。
九、現存する世界の破壊に参画し、来るべき世界へ目を大きく開くこと。…(33−34)

〔森における《出会い》のための指令〕
…ぬかるんだ地面の上、森の中心に、ものごとの通常の秩序に混乱が生じる場に、落雷に撃たれた一本の木がある。
アセファルと名づけられ、腕はあるが頭のない形で表されるなにかが、その木において無言で現れるのが認められるだろう。私たちの生を存在理由で満たす現れを追い求め、それと出会おうとする意志こそが、足取りにある意味を与え、その意味ゆえに、その歩みは他の人々の歩みとは対立する。森で試みられるこの出会いは、実際には、死がそこで露わになる限りで生じるだろう。その現れの前に進みでること、それは私たちの死を覆う衣を引き剥がそうと望むことだ。(141−142)

〔死を前にした歓喜を求めて〕
私たちの歩みは、いま一度私たちを森の夜の中へと導く
――死を前にした歓喜に出会うために
死を前にした
歓喜
を求めて(382)

二番目の引用にあるように、「私たち」は「生の存在理由」を「追い求め」つつ、その果てに「死」を見定める。情動と理性とは矛盾するが、ある面において同一となる。情動の側面はニーチェの「超人」が受け持ち、アセファルが受け持つのは反理性的理性の側面である。この「合致」は、一瞬の「閃光」のうちに、奇蹟として、果たされる。

超人の神話が神と異なるのは、それが犯罪行為によって神を否定するからだけでなく、それが人間の情動的な生存(エグジスタンス)の目的を表す以上に、人間の(つまり主体の)存在のある可能な様態を表すからである。この点において、この神話は、主体であるよりも直接的に目的となる「アセファル」とも異なる(であるから「アセファル」の神話は、主体が自らの頭脳の能力を放棄することを求めないし、ましてやこうした能力の実践的な価値を貶めることも求めない。ただし、人間にとってこの能力が対象とされ、理性の名のもとに、この上なく強い情動を負荷されることでこの能力が一つの目的となってしまう限り、「アセファル」の斬首は、絶対的要求として現れる)。
……超人と「アセファル」の合致が見出されるのは、それらがある閃光と、つまり、生の絶対的な目的としての時間の位置づけに等しい閃光と結びつくからである。(316−317)

「この点において、この神話は、主体であるよりも直接的に目的となる「アセファル」とも異なる」って部分の意味がよく分からない。誤訳か?(←責任転嫁)まあ、意味が取れないっていったら、全部意味なんて分からない訳だが。ともあれ、この閃光の時間は「恍惚の時間」であるらしく、それは「子どもじみた偶然によって現れの領域へと導き入れられる事物のヴィジョンにおいてのみ」見出される(317)。それは「死体、裸体、爆発、流血、深淵、雷鳴、太陽といったヴィジョン」である(317−318)。
しかし、こいつらが秘密結社を作らなくたって、べつに人間世界に戦争や暴力が絶えることはないのであり、そこで生の強度を称揚するのであれば、そんなことは経験的にいつでも可能である。勝手に言ってなさい(――ってのは酷いかな?ちなみに下記書影に写っている頭のない人が「アセファル」です。)。

聖なる陰謀―アセファル資料集 (ちくま学芸文庫)

聖なる陰謀―アセファル資料集 (ちくま学芸文庫)