『流れる』補足

小林信彦『昭和の東京、平成の東京』より。

成瀬の描く下町は、つねに、夢がないが、希望も幻想もないその描写は、『流れる』につどめをさす。ドラマティックな要素はほとんど無く、柳橋というきわめて狭い町の中での女たちの、文字通り、流れに身をまかす生き方しかない。封じ込められた彼女たちの息抜きは喫茶店でのお喋りぐらいで、あとは暗い置屋の中での呼び出しの電話を待つだけである。(180−181)

一九五六年当時、この中で観客吸引力があったのは、高峰秀子岡田茉莉子だが、田中絹代山田五十鈴杉村春子がならぶ顔ぶれは豪華きわまる。その迫力は、中盤、往年の大スター栗島すみ子の登場にいたって――なにしろ、『泣蟲小僧』(一九三八)いらい、十八年ぶりのカムバックなのだ――日本映画女優史の観を呈する。(184)

つづく。