Marxの限界

『経済学哲学草稿』より。

対象的世界の実践的な産出、非有機的な自然の加工は、人間が意識を持った類的存在であること、即ち、自己の本質としての類に、あるいは類的存在としての自己に関係する存在であることの確証である。……動物は単に直接的に肉体的欲求に支配されて生産するだけであるのに対し、人間そのものは物理的欲求から自由に生産する、しかも物理的欲求から自由になって初めて真に生産するのである。動物が自分自身を産出するだけなのに対し、人間は全自然を生産する。動物の生産物が直接的にその物理的身体に属すのに対し、人間は自らの生産物に自由に対峙する。

ここまでは良い。人間が自然のメカニズムを対象化し、それを加工していくことは、人間と動物の本質的相違を構成する。しかしその本質的相違が、あくまで理論家にとって理解された「確証」であることには注意が必要だ。以下のように論理を展開するMarxには、「理論家」としての視点と「人間一般」の視点を、無前提に同一視する混乱が見受けられる(=観察された「確証」の過剰な一般理論化)。

……それゆえ人間は、まさに対象的自然の加工において初めて現実的に類的存在としての自己を確認する。この生産が人間の制作活動的な類的生活である。この生産を通して自然は人間の作品、人間の現実として現れてくる。ゆえに労働の対象は、人間の類的生活の対象化である。というのは労働において人間は自己を、意識の中でのように単に知的に二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも二重化し、それによって自らが想像した世界の中に自己自身を直観するからである。

この箇所は、Marxが「社会的関係性」としての「労働=生産」の項を導入することで、主客の二項対立に基づくブルジョワ経済学・ブルジョワ哲学を超克した重要な部分である。しかし、「類的存在」としての自己意識が「労働=生産」によって始めて見出されるというのは、かなり無理な前提であるように思われる。たとえば、表象能力の有無、といったことも(すなわち宗教に見られる集合表象の存在も)、人間の類的本質を「確証」すべき事実であるはずだ。なぜ、「労働を通じて自己を見出す」ということが、本質的な事態として特権化されるのか。
社会の普遍理論としてのMarxの弱さは、この点にあるように思われる。