勉強進まず、大月隆寛を読む

勉強のために選んだ場所が悪かった。邪念に取りつかれ、読書進まず。
集中できないので、大月隆寛を読んだ。勉強になるし、タメにもなる。ところで、この人の知性についての考え方は、私の考えとも大変近い。自己愛ゆえの屈折という点で、資質的にも共通性を感じる。ただ、この憑かれたような饒舌さは、私の中にはほとんど存在しないものだ(=批判的言辞を繰り出す際のレトリカルな冴え)。また、書評における「芸」へのこだわりが表出過多なのも、この人独自の特徴であろう。つまり、「知性のあり方」にこだわっていること、そこにこそこだわりの焦点を見出していることが、大月に対して、私が距離を感じる本質的部分である。それはおそらく、私が大月よりも「普遍性」に対して楽天的な信頼を与えているせいであろう。私自身、「正しい知性のあり方」は「普遍性」と一本道でつながっていると考えている(もちろんそれは根拠のない信頼にすぎないが)。それゆえ、戦うべきフィールドは「知性のあり方」(=「芸のあり方」にも通じるだろう)のレベルではなく、「普遍的な知見をいかに提示するか」というレベルにあると信じている。どちらが良い、というのでは、もちろんない。大月のこのスタンスは、80年代ポストモダニズムをいかにして解毒するかという、同時代的課題から導かれたものでもあるのだろう*1
柳田、南方熊楠朝倉喬司美空ひばり都はるみ岡崎京子山口昌男、田中清玄あたりが記憶に残った。あと古島敏雄『子供たちの大正時代』の絶賛の理由がピンとこないのは、まだまだ自分が未熟なせいだろうかとも感じた。また、安原ケンの坪内祐三批判に大月が同調している部分には、私も同調したい部分があり、つねづね感じるのは、坪内祐三の在野的矜持がはたしてどれほど有効なのか、ということである*2。あれも「芸」か?

独立書評愚連隊 地の巻

独立書評愚連隊 地の巻

*1:もちろん、大月の文体は、アカデミズムの「普遍的」語りに異和作用を及ぼすための戦略と見なすことも出来る。それは、ヨーロッパ近代に普遍性を重ね合わせる所作に対する、民俗学的立場からの異議申し立てと考えてよいものだろう。そして、その水準での「普遍性」の希求ならば、私の望む「普遍性」ともまったく共通する。…というのは、民俗学寄りの大月理解。

*2:詳論はしないが比喩的に述べれば、「ストリートワイズ」といったようなフィールド設定の仕方には、ある種の偏狭さがあるということだ。