溝口健二『祗園の姉妹』(1936)

フィルムセンター。

(69分・35mm・白黒)『浪華悲歌』では大阪弁の言葉遣いが気になって演出が手薄になったという監督が、本作では京都の花街に生きる姉妹芸者の人物造型に挑戦した。結末の芸妓(山田)の絶叫とともに、当時から絶賛を浴びた溝口=依田コンビによるリアリズム路線の傑作。『浪華悲歌』と本作によって、第一映画は短命ながらも日本映画史に輝くプロダクションとなる。
’36(第一映画)(原)溝口健二(脚)依田義賢(撮)三木稔(出)山田五十鈴、梅村蓉子、志賀迺家辨慶、久野和子、大倉文男、深見泰三、進藤英太郎、いわま桜子、林家染之助、葵令子、滝沢静子、橘光造、三桝源女

双葉十三郎さん。

京都の姉妹芸者、姉の梅吉(梅村蓉子)は男に従順な昔風の性格、妹のおもちゃ(山田五十鈴)は男を手玉にとって生き残ろうとするタイプ。しかし二人ともついには男に騙され、裏切られ、絶望的な状況になってしまう。おもちゃは叫ぶ。「何であてらはこないいじめられんならんのや。なんで芸者みたいな商売がこの世にあるんや」。同じ年の溝口健二監督作品『浪華悲歌』を本書で、そのハードボイルド・タッチがすごい、と評したけれど、この作品もなかなかにハードボイルドだった。脚本は依田義賢

これぞ京都。私は祖母が京おんなだったので京都の古い言葉は聴き慣れている。
山田五十鈴のここでの演技は天才的なものだ。男を手玉に取る鮮やかさに少しも演技めいた不自然さがない。驚くべきことである。また、昨日の作品とは違ってリアリズムが達成されているのは、勧善懲悪のプロットではなく、おもちゃの女としてのプライドがストーリーを貫いているからだ。ハードボイルドというのも、やくざになった番頭に誘拐される場面などがあって、たしかにそう。構図的には、画面の奥まった場所に登場人物が配置されているのが特徴的。『虞美人草』との共通性はコメディー的な要素にある。
とにかく成瀬巳喜男『流れる』と並び、山田五十鈴に圧倒される作品。