買った本についての長い目の紹介

神保町へ。『QT社会』という本を買いたかったのだけど、古書会館に立ち寄ったところ、買わねばなるまい本を発見してしまったので、それだけを買っておしまいにすることにした。2100円だったけど、ちょっと高かったと思う。
勉強。飽き飽きしてきたので、ブックオフへ。
105円で、谷沢永一『私の「そう・うつ60年」撃退法』(講談社+α文庫)、プルースト『失われたときを求めて5 第三篇 ゲルマントの方Ⅰ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を買う。谷沢のは前に売ってしまったため、二度買い。ご存知のとおり名著。贈答用。プルーストは105円に驚き、買ってしまう。
それから、加藤周一『二〇世紀の自画像』(ちくま新書)も買う。電車の中でだいたい読んだが、この人は偉い。というか、私は昔この人が言っているようなことをずっと調べていたので、むしろ懐かしかった。私は小さい頃から大人は世の中のことを何でも知っているものだと勘違いしており、大人は世の中のことを知っているのに、自分はなぜこんなに世の中が複雑に見えてしまうのか、と思っていたのだが、じつは大人たちは世の中を単純化して見ているにすぎないのだ、また、そうすることのできるような社会的条件が戦後日本社会においては成立しえていたのだ、と気づいたのは、だいぶ後になってからで、そうしているうちに戦後知識人たちの配置構造のようなものが徐々に頭に入ってきていたというわけだ。
文庫では、L・フェーブル『フランス・ルネサンスの文明』(ちくま文庫)、D&G『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 上・下』(河出文庫)を、それぞれ半額で購入。

ガルガンチュワが、恐るべくまた象徴的な食欲をもって食卓に座る時、彼は古代をもそのなかに含む全自然が、色とりどりふんだんに卓上に盛られているのを見ているのだ。…十七世紀とは要するに何であるか?それは十六世紀が併呑したし矛盾する思想や異質の事実のすべてを、百年近くかかって消化し、ゆっくりと同化した時期以外の何ものでもないではないか?(112)。

『アンチ・オイディプス』については、英語翻訳版にFoucaultが序文を寄せている。それによると、こうである。

『アンチ・オイディプス』を新たな理論的レフェランスとして読むのは恐らく誤りだろう(ご存じだろう、あの前々から待望久しかった、ご大層な新理論という奴だ――すべてを包含するであろう理論、まったき全体化をめざし、人々を安堵させてくれて、もう「希望」の失せた散逸と専門家の時代にあって「われわれがそんなにも必要としている」――と人がわれわれに断言する――そんな理論とやら)。新奇な諸観念、唐突な諸概念のこの途方もなく豊かな充溢のうちに、「哲学」を求めてはならない――『アンチ・オイディプス』は、安ぴかのヘーゲル的著作ではないのである。私の思うに、『アンチ・オイディプス』の最良の読み方は、「技芸(アート)」として――たとえば「エロティックな技芸」と言うような意味での――この本に接近することだ。(文庫コレクション第6巻、159)

要するに、論理が与える安定性への安住が、批判精神の欠如とそれに伴うファシズム的欲望を招致するものであるのなら、現実の複雑性そのままに論理の安定性を剥ぎ取り、かつ思考のダイナミズムをそのままに生かすことによって、柔軟な知性の働きを保全していこうではないか、そういうものとしてこの本を読もうではないか、いや、そう読むべきだ、と言っているわけだ。しかし、私に言わせれば、論理の安定性に言説の権力性を読み取るのは被害者意識が過剰であり、論理を通してしか批判的知性もありえないのだから、論理によって批判性が減滅させられてしまうようなヤワな知性をはじめから相手にするべきではない、いや、もっと言えば、言説の展開のうちにある種の硬直性を招き入れてしまうのは、一神教文明に淵源するヨーロッパ人に特有の自己主張の強さゆえのことであって、それは特殊文化的なローカルな課題でしかない、われわれ日本人は無視してよい性質のものだ、そんなのは普遍性でもなんでもないのだとヨーロッパ人はすぐに気づくべきだ、ということになる。
「じゃあ、何で買ったのか」という声が聞こえてきそうだが、それは、新しい本なのにブックオフに安くであったからだ。お部屋のインテリア、つまりアートとして、この本に接近したのだ(←ここ、へたなジョーク。かつて『構造と力』をちらつかせることがエロティックな機能をもちえた時代もあったそうですな。いやはや。)。