革命の主観的条件

書くことがないので、前に言っていた「革命の主観的条件」について引用する。大澤先生。相変わらず意味不明だが、部分的には教えられることが多い。

レーニンは、ベルンシュタインに激しく反発し、有名な『何をなすべきか?』を出版した。レーニンの立場を浮き彫りにするには、レーニンとベルンシュタインの対立の間に、ローザ・ルクセンブルグを挿入してみることである。ローザは、ベルンシュタインとも、レーニンとも対立したが、それは彼女の立場が、両者の中間にあったからである。言い換えれば、ローザのベルンシュタインへの批判の趣旨を延長させれば、レーニンの立場を導くことができるのだ。ベルンシュタイン等は、客観的な社会的条件が整う前に、つまり時期尚早に権力奪取を図ってしまうことを恐れている。これに対する、ローザの反論はこうである。革命の好機を待っていたら、それは永遠にやってこない。最初の「権力奪取」の試みは、原理的に時期尚早でしかありえない。というのも、時期尚早の権力奪取の試みの反復的な失敗こそが、革命の主体を教育し、その主観的条件を成熟させるからである。これがローザの答えだ。つまり、(最初は)失敗として遺棄される行為だけが、革命の成功のための不可欠の条件であり、その意味で、成功は失敗を内在させているのだ。時機早々の放棄の反復的な失敗こそが、革命であるというローザの議論は、ただ真理への漸近があるのみである――真理への到達の失敗の反復だけがある――という、レーニンの主張に似ていないだろうか。(講談社『本』2006年11月号:4)

レーニンは『唯物論と経験批判論』においてボグダーノフ、マッハらの経験批判に反論し、カント以前の素朴な「反映論」を支持した。これは、客観的な物質的実在と意識それ自体を二元論的に対置する立場であるが、これによって「唯物論」の成立根拠が保証されるというわけである。しかしここでレーニンは、「意識それ自体」が決して物質的実在としての客観的真理には到達しえないと考える。というのも、「意識それ自体」が客観的実在の完全な外部に位置するならば――すなわち認識能力が経験性から超越し、それによって独自の性能を備えるならば――、それは逆説的に観念の優位性を唱える観念論の系譜に逆戻りすることになるからである。
したがってレーニンの実践論もまたローザと同様、客観的実在と認識との間の弁証法的構図を取ることになる。

権力奪取の好機をじっと待っている改良主義者たちは、社会的過程の外部に視点を据えている。それに対して、ローザが失敗の必要を説くのは、革命の主体自身が社会的過程の一部だからである*1。同じように、世界の全体を客観的に把握する真理へと永遠に到達できないのは、認識する主観自体が客観的な世界の一部だからである。

このような立場からレーニンは、革命の失敗を指導する革命組織、「消滅する媒介者」としての革命的指導者を唱えるにいたった。純粋に大衆的なわけでもなく、純粋にアカデミックな超越的視点に立つのでもない。こうしたレーニンの戦略性は、1905年の第一次ロシア革命におけるプレハーノフ批判、あるいは1870年9月の大衆蜂起に対するマルクスの微妙な支持のあり方への賞賛にも表れている。レーニンは、国家を支配階級による支配の手段と見なしつつも、プロレタリアート国家を求め、また資本主義を批判しつつも、「新経済政策」による農村への資本主義的介入を指導した。こうした矛盾したあり方は、彼に独自の弁証法的認識論・実践論に立脚するものだったわけである。
うーん、(独りで)納得*2

*1:「資本主義の発展法則からしたら、ロシアで革命なんて成功するわけないじゃん」みたいな批判は、だから当然なりたたないわけです。残念!!

*2:http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20051207http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050907http://d.hatena.ne.jp/seiwa/20050906