蘇我蝦夷と蘇我入鹿

NHK「飛鳥発掘が覆す大化改新」の再放送を見る。大化の改新はじつは反動的だった、という話。
蘇我氏は血縁的にも大陸とのつながりがつよく開明派であった。明日香村では東アジアの国際情勢を見据えつつ、天皇を防御する軍事的備えを担っていたという。他方、中大兄皇子中臣鎌足らは唐の勢力伸張への危機感を共有せず、落ち目の百済を支援する守旧派だった。大化の改新守旧派開明派を打ち破った事件であった。
しかし中大兄皇子天智天皇として即位し、663年に白村江の戦を迎えると、そこでの惨敗をきっかけに内政は一気に新進的制度の移入へと向かう。白村江の戦はカミカゼ的体当たりの結果の徹底的敗北であり、そこではじめて唐の勢力への深刻な懸念が自覚されたわけだ。瀬戸内海ラインには玄関口の北九州から始まる防御システムが構築されていく。
さて日本書紀中臣鎌足の息子の藤原不比等天智天皇の二人の娘、持統天皇元明天皇によって編纂された歴史書であるが、実は日本書紀は大陸人によって筆記されたものであり、最終校正段階部分にのみ日本人によるチェックが入っていることが知られている。その部分だけ語法上の誤りが散見されるからだ。
そこには天智政治を一貫した枠組みで整理したい息子、娘たちの政治的意図が見え隠れする。つまり実際は反動的改革であった大化の改新は、あたかも最初から開明的政策の出発点であったかのように記述されねばならなかったのだ。そうした理由に基づき、開明派ゆえに斃れた蘇蝦夷蘇我入鹿は、天皇の地位を狙う反逆者として位置づけられる必要があった。歴史はゆがめられた、というわけだ。
という内容。東大入試とかに出てきそう。
直情主義で臨んだ白村江の戦で痛い目に遭い、はじめて冷静になるという歴史の繰り返し具合が興味深かった。また内政面における壬申の乱がどのようなかたちで作用したのかについても気になった。あと、唐との交流を深めるのではなく百済にシンパシーを抱くことが、どのような意味で反動的であるのか十分に理解できなかったので、知っている人がいたら教えてください。