トロツキー『レーニン』

光文社古典新訳文庫。これまでロシア語原典からの信頼に足る翻訳は無かったそうだ。
レーニンが死去し、スターリントロイカ派(ジノヴィエフカーメネフ)を中心にトロツキー追放の謀略を進める最中の1924年、この本は書かれた。党内民主主義すらも放棄する独裁路線を進んだスターリンは、マルクス主義理論家としてのレーニン像を神格化したが、それに抗してトロツキーは、現実的な戦術論を展開するレーニン像を描く。刻々と事態が変化するなかで本質を抉り出し、戦術の方向性を決定する類稀なる革命的資質こそが、レーニンの核を成す部分だ。
構成的には、「レーニンと旧『イスクラ』」で、1903年当時の『イスクラ』をめぐる分裂騒ぎが扱われ、「一九一七年十月」で十月革命とそれに先立つ7月事件などが扱われる。前者では、プレハーノフら「古参派」のなかで成熟したレーニンが、トロツキーにも影響が及ぶかたちで分裂を招く過程が描かれる。それからしばらくはトロツキーレーニンは別の立場に置かれるわけだが、「一九一七年十月」では、両者がともに共闘しつつ戦術論を戦わせる場面が回想される。
「後に、コミンテルンの第一回大会において民主主義に関する彼の有名なテーゼのうちに定式化されることになる思想がレーニンの意識の中で形成されたのは、疑いもなくこの時期である」(193−194)とトロツキーが書く、「憲法制定議会の解散」の一節が興味深い。憲法制定議会の招集を延期して、ボルシェビキにとって有利な形で選挙を実施すべきだとしたレーニンは、議会を召集しないことによる左翼勢力の求心力低下を懸念するトロツキーらに押し切られ、結局憲法制定議会を召集するのだが、これはまさにレーニンが危惧したかたちで議会での左翼勢力の地位低下を招く結果となり、左翼は議会解散という手段に出る以外の方策を失った。しかしレーニンは「結果的にはこれでよかった!」と結論する。それは、「プロレタリア独裁を準備するための一時的な条件にすぎない民主主義が、最高の基準となり、最高審となり、侵すべからざる神殿」となる、「ブルジョア社会の最高の偽善」(194)が、この段階で払拭されたからである。
しかし、辛くも残された党内民主主義がスターリンによって踏みにじられ、トロツキー排斥につながったのだとしたら、大局的に見て、独裁路線の戦術論はやはり「両刃の剣」だな、ということになる*1
よく整理された「解説」でも指摘されているように、最善の策を取るトロツキーと「次悪」で満足して大局を見失わないレーニンとの対比が面白い。『わが生涯』の下巻も読まなくちゃ。

レーニン (光文社古典新訳文庫)

レーニン (光文社古典新訳文庫)

*1:私が日和見主義者だからそう思うのかもしれない。(インテリ無気力者のことをオブローモフ主義というらしい)