アリストテレスあれこれ

『思想』№981(2006年1月号)掲載、岩田靖夫「理性と法――アリストテレスの政治思想における教育の意味」は名論文なので、一読をおすすめしたい。以下、抜書き。
アリストテレスの幸福論。ポリスのイメージ。

人間を人間であらしめている原理が法と正義であり、その元にあるのが思慮と徳であり、それを活動させているのが理性であり、これらの原理によって成立している共同体がポリスである。/…人間の場合、心の善さと身体の健康と適量の富が幸福の構成要素であるが、これらには序列があり、この序列が乱れれば不幸になる。心は身体に優り、身体は富(外的な善)に優るように、心の善さとしての徳が幸福の中核であり、それに支えられて身体の善としての健康が幸福の部分となり、さらに、これらの両者に支えられて、外的な善としての富が徳と健康に仕えるものとして幸福の構成要素となる。

習慣形成。とくに子供への教育。

人間において習慣化されるべき行為の素材とはなにか。言うまでもなく、それは快苦により現されるもろもろのパトスである。/…/…徳の形成はこの不安定なパトスを、理性的選択意思に基づく同一行為の反復により、次第に不動の行為能力へと形成することにより遂行されるのである。しかし、問題は、徳の形成は大人になってからの理性的判断による意識的努力のみによっては難しい、という点にある。…それだから、判断力、意志力の不十分な幼時における、善や正義へ向けての、大人の理性的指導による、無意識的軌道化が緊要となる。(『政治学』第七巻第一七章)

親愛の情を育むためには中間層の増大が必要。「中間の国制」。プラトンの守護者層/軍人/生産者の三区分と異なり、アリストテレスは富裕層/中間層/貧困層の三区分を取るが、哲人王政治を理想とするプラトンとは反対に、アリストテレスは限りなくデモクラシーに近い政体を理想とする。

…国家はその構成員が可能な限り平等で同質であることを目指さなければならない。それには、能力のある者には「支配されること」を教え、能力に乏しい者には「支配する権利のあること」を教えなければならない。そのためには、福祉政策や公共善の増大によって、可能な限り民衆の富を平均化し、中間層を増大しなければならない。なぜなら、同質の人々の間には親愛の情が生まれやすく、この親愛の情が平和の素となるからである。

中間の国制を実現化するための教育の必要。ただしデモクラシーは、多数者の欲望を絶対正義とする点で「中間の国制」とは微妙に相違する。

あらゆる教育は限りなくデモクラシーに近い「中間の国制」もしくは「混合の国制」へ向かっての教育である。中間の国制とは、国家の中にいろいろな階層がありながら、中間層を核としてそれぞれの階層が相互に他の階層の利益を考慮して平和共存する、という国制のことであるが、こういう国制を成立させる精神がアリストテレスの是認する「自由」ということなのである。

ポリスへと向けた教育の本質目的。階層的差異を認識しうる公教育の形式が必要。

…構成員全体に対する同一の教育とは、そもそも人間が理性的存在者であること、それ故、万人が自由で平等であること、したがって、このことを実現しうる国家(ポリス、共同体)の成立について国家の構成員全員に責任があること、を、万人に教え込むことに他ならないのである。

さて、ここからがメイン。アリストテレスは理想の市民は『暇のうちに時を過ごさねばならず、この暇の時間こそが浄福の生なのである』と言っている」が、その理由。

…先ず人間は生きるために衣食住を整える活動をせねばならない。だから、これは人間にとって必然の活動である。しかし、なんのために生きるのか。それは、善く生きるためである。では、「善く生きる」とはなにか。それは、有徳の生を送ることである。しかし、有徳の生はなんのためか。それは、真理を見るためである。では、真理を見るのは、なんのためか。なんのためでもない。真理を見ることにはなんの目的もない。それが究極目的だからである。それが、観想的生活なのである。「暇のうちに時を過ごす」という表現は、「何もしないで怠けている」という意味ではなくて、「なんのためでもない活動に従事する」という意味なのである。究極的なものは「なんのためでもない」。だから、いつでも「あらゆるところで、有益なことを求めまわるのは、魂の大きな自由人にはもっとも相応しくない」とアリストテレスは言うのである。

読みましたか?他のところは読まなくていいから、ここだけは読んでね。
ソクラテス処刑のショックが薄らいだせいかは分からないが、アリストテレスは人間を一片の理性を含んだ動物=理性的存在者としてずいぶん信頼している。ここはプラトンと決定的に違う点だ。しかしペロポネソス戦争後のショックからイデアの探究=観想的生活へと向かったソクラテスプラトンの路線についてはアリストテレスもこれをしっかり踏襲する。おとといレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』を読んである一節にショックを受けたので、この文章を見つけてうれしく思った。