相米慎二『セーラー服と機関銃』(1981)

132分、製作:角川春樹多賀英典、プロデューサー:伊地智啓、原作:赤川次郎、脚本:田中陽造、撮影:仙元誠三、主演:薬師丸ひろ子渡瀬恒彦、風祭ゆき、三國連太郎柄本明
監督自身が原作をみつけ、再び薬師丸ひろ子と組んで大ヒットを飛ばした出世作。奇抜で痛快な展開の中にも少女の成長する姿が繊細に刻み込まれ、数多くの名シーンが生まれた。

シネマアートン下北沢。この監督は少女の何たるかを知り尽くしている。少女とは何か、知りたい人がいたら、この映画を観るべきだろう。
本作品がたんなるロリコン映画にとどまらないのは、大人になることの痛みが痛切に捉えられたうえで、その痛みを甘受する実存的な決意が示されているからだ。そもそも少女とはそうした両義性を帯びた存在であろう。純粋性ゆえに人間の汚さもはっきりと見えてくる。汚さの上に汚さを積み重ねるヤクザも、純粋さを留めているからこそ、モラトリアムな粗暴者なのである。それはもちろん思春期における性の問題にも直結するものだ*1
「生まれてはじめての口づけを 中年のオジンにあげてしまいました ワタクシ 愚かな女になりそうです マル」。自身の女性性を風祭ゆきの中に発見し、密かな恋心を抱いていた渡瀬とその風祭がセックスしている場面に遭遇して、薬師丸ひろ子は夜うなされる。これはもちろんうなされているのではなくて、セックスを体験してしまっているのである。無垢であることと無垢ではいられないこととの両義性を表現する薬師丸ひろ子は、本当に、圧倒的に、素晴らしい。名作。明日まで。

*1:長澤まさみ主演ドラマの限界はすべてここにある。性の問題を避けて通れば、少女性の表現は不可能なのである。だからロリコンドラマでしかなくなったのだ。