黒木和雄『日本の悪霊』(1970)

4月、36本目の映画。

(90分・35mm・白黒)新左翼学生を含む幅広い若者の支持を得ていた高橋和巳の原作をもとに、学生運動の過去を持つやくざと生真面目な警部補の入れ替わり劇を佐藤慶一人二役で演じた作品。黒木はコミカルな会話や仁侠映画的な表現を加えて高橋の重々しい文体を意図的に脱色した。暗黒舞踏土方巽や“フォークの神様”岡林信康の唐突な登場にも驚かされる。
’70(中島正幸プロ=日本アートシアターギルド)(原)高橋和巳(脚)福田善之(撮)堀田泰寛(美)平田逸郎(音)岡林信康早川義夫(出)佐藤慶高橋辰夫観世栄夫、榎本陽介、蔦森皓祐、深尾諠、鈴木両全、土井通肇、倉沢周平、坂本長利、関口瑛、林昭夫、渡辺文雄、丸茂光紀、成瀬昌彦土方巽殿山泰司

佐藤慶が好演。共産党山村工作隊には黒木監督自身も参加した経験があるそうだ。佐藤忠男黒木和雄とその時代』(現代書館)によると、途中の迫真のナレーションは監督自身によるものであるという。六全協極左冒険主義が撤回された以降の、革命闘士のアイデンティティ危機が、戦中派の皇国敗戦と結びついたアイデンティティ混乱と結び合わされて描かれる。その結びつきを描く道具立てとしての佐藤慶一人二役だ。
ところでこの映画では、アイデンティティー危機を救済する方向性は示されていない。岡林信康の唄うメッセージソングや、落合刑事が抱いた若い女の子の印象的な肯定的応答の中に、その可能性が模索されているように読み取れるが、しかしそれ以上の明確さを欠いている。とはいえ、肯定と否定の間で引き裂かれることこそ、黒木監督の考える人生の姿そのものなのかもしれない*1。それは昨日の君原選手のマラソンへの姿勢のなかにも如実だったことだ。以下、引用。

……彼は、そういうことばかり考えながら走っているのであり、あるいはペース配分をどうするか、どこでスパートをかけるかという作戦に思考をひたすら集中させながら走っているのであることが、映像とインタビューへの答えとの巧みな組み合わせでくっきりと分かる。そしてそれが奥行きのある感銘をもたらす。なぜそんなことが感動的かと言えば、人生とは正にそんなものだからだ、と言うしかないであろう。人はやるべきことをやらなければならないし、やれば意のままにならないことの連続であり、それを必死にコントロールしつづける以外にない。ラソンランナーなどというとなにか特権的で特別な存在のようであって、走りながらなにか、無念無想の境地にでも達しているかのようであるが、そんなことはないのだ。そこに気をくばり、どこに神経を集中し、どうして失敗をとりもどすか、ただひたすらそれを考えつづけているのだ。……(60−61)

*1:肯定と否定とが引き裂かれることによって、冷静な認識者に特有の笑いが生まれる。これは黒木映画の本質部分に位置するのではないか。佐藤忠男本は極めて勉強になる好著だが、この点に関しては読み取りの甘さがあるように思われる。