サンケイ新聞か何かのネット記事。

今も「俳優」でいる自分に違和感を持っている。俳優になったのは、いわば対人恐怖症のリハビリだったという。日本人形作りの職人だった父親が、戦争によって道具を失い、生活は苦しくなった。
「おやじは手足である道具をもがれ、女たちは泣きっぱなし。周りを見ると、生き延びようと、それぞれエゴ丸出しで、時に暴力的になる。小学生だったけど、もうここから出たい、そう思ってました。そういうものが徐々に積み重なって、高校に上がったころは、人間と付き合うのが怖かった。大人だとか子供だとか、男だとか女だとか関係なくね」。
対人恐怖症に陥った原田少年は、山岳部に入った。
「逃げ込んだのが山だった。解放感は味わった」。
山を通じて知り合った男と山小屋を経営しようとしたが、その男が山小屋同士のもめ事に巻き込まれ、話はなくなった。俳優座を受けようとした友人が、直前まで迷っていたのを見て、願書を奪って自分が受験した。試験前日に胃けいれんを起こしながらも、何とか合格した。
「うそっぱちの世界に逃げ込もうとしたんですよ。役といううその世界に入ると、少しは手足が動かせたり、生の声を上げたりできた。どうしようもない自分にとって、驚きだった。そのへんは、今でも基本的に変わってないですよ。映画といううそっぱちの世界にいると、役によって入れ替わりが自由で楽しい。そんなことやっていて、ほどほどにメシ食えて酒も飲める。申し訳ないよね」。

望月六郎『鬼火』(1997) や鈴木清順『ツゴイネルワイゼン』を観たあたりから、原田芳雄がたまらなく良いなぁと思っている。
今日は案の定疲れきって、映画を観るしかなかった。フィンリーの本を読んでいたら、シュンペーターのある本が気になってしかたなくなり、しかし高いので買うのを見合わせて、代わりに『経済学史』(岩波文庫)を買って読んでいた。プラトンゴルギアス』も読んでいたのだが、140ページ前後にあるカリクレスの支配者=強者説が興味深い。ニーチェを先取りする強者肯定説に対してソクラテスがどう対応しているかというと、欲望の無規制を戒める中庸を説いている。ではニーチェはこのような中庸論について、いかなる形で反論を準備していたのか。ニーチェをちゃんと読んでいないので分からないけど、でも、面白いよね。
それにしても、伊丹十三の演技を見て、ああいうインテリ的な変態性欲は素晴らしいし、できれば一度、あんな風にやってみたいものだと感じる。これは蛇足か。