世界市民?

昨晩は眠れなくて、薄い本でも読もうと思って、カント『永遠平和のために』を読んだ。シニカルな序章に始まって、なかなか面白い。常備軍の廃絶とか、読まなくても知っている提言は別として、世界国家が批判される論拠に国家を道徳的人格と見る主張が挙げられるのは(別の論者が想起されるなどして)興味深かった。啓蒙専制君主に道徳的人格の完成への希望を見出す論旨は、『啓蒙とは何か』でも読んだことがある。なお第一確定条項の注(市民的体制が共和的であるべきこと)で、ミル的な「自由」が斥けられて、外的法則を意思する自律性に「自由」の根拠が見出されているのは、やはり独特なものを感じる。「平等」もこのように意思された法則の下で成立する概念となる。あと、自然状態が戦争状態だと考えられていて、外的法によってそれから離脱できる、というロジック(これは解釈が入っているかもしれない)は、政治理論としてどの程度のユニークさを持っているんだろうかと思った。人によっては常識なのかもしれないですが。
今日は作業の合間に、一応作業自体にも密接に関連するという言い訳の下、佐々木毅アメリカの保守とリベラル』を再読した。R・Reichの人物と思想が興味深い。Reichによると、世界経済には、ルーティン生産労働者、対人サービス従事者、シンボリック・アナリスト、の3者が存在する。前二者はグローバル圧力にさらされる弱者であり、後一者がアメリカ国内経済を支えるエリート層である。ところが問題なのは、エリート層はコスモポリタンなので、経済ナショナリズムへのインセンティヴが存在しないことである。そうなると、ルーティン生産労働者や対人サービス従事者は、政治システムからの十分な保護が得られず、競争相手となる移民などへの排外的ナショナリズム感情を溜め込むようになる(エリート層がかせぐ経済利益が国内に還元されないから)。そうした殺伐とした社会状況のもと、エリート層との分極化はさらに進行するのではないか、というのがReichの危惧するポイントである。
こうした悪循環を避けるべく、ネオ「リベラリスト*1たるReichは、「積極的ナショナリズム」という処方箋を提示する。アメリカの世界経済的ヘゲモニーを確立することで、エリート層の自国への引きとめを図るという戦略である。しかし、このような経済ナショナリズムを前提とする理論図式は、発展途上国のエリート育成を鑑みても、うまくいくかどうかは難しいように思える。といって、これが上手くいかないとしたら、少なくともアメリカ一国ではReichの危惧する社会の分断(および徹底したグローバル経済化)が進行することになるのである(ある意味とっくにそうなっているかも)。
もはや世界市民しかない?(でもカントによれば、それは殺伐とした自然状態にほかならないわけです。人種対立、階級対立が剥き出しの世界…。)
色々と面白かったので、古本屋に行って、佐々木毅『現代アメリカの保守主義』(岩波書店、同時代ライブラリー)を200円でゲットした。

*1:ここは密かにポイントです。