特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ — 天才の実像」


The Mind of Leonardo - The Universal Genius at Work、東京国立博物館レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452−1519)という人が物凄く良く分かった。マキャベリ(1469−1527)と同時代人のこの人の芸術は、普通に見ていたのでは到底理解することができない。
だいたいメインの「受胎告知」(1473頃)からして罠が隠されまくり。それなりに混んでいたのだが、一応正面の場所をゲットして、フムフムと眺めていたところ、解説ビデオを見てビックリ仰天。「マリアの右腕、長すぎるやん。ダビンチもあんがい絵が下手くそやってんな」と能天気な感想を漏らしていた私だったが、実はこの絵画は正面から見てはいけなかったのだ。右手後方から斜めで見ないとダメなんだって(聞いてないし)。
「空気遠近法」だの黄金比だのを駆使した絵画技術も、彼の自然科学観と結びついており、彼の壮大な意図の全体像を理解することなしに、その芸術評価もあったものではない。そもそも飛行機とか翼とか、自然に隠された機械的カニズムは、ダヴィンチにあって自然と人間とを質的断絶なしに貫く神聖な法則なのであった。巨大な馬の像(スフォルツァ騎馬像)の鋳造で発揮された工学的知識も、プロジェクトを実現するための単なる手段的知識ではなく、それ自体として、自然の摂理を構成する真理の一部であった。
つまり、「機械論的世界観」と一口で言っても、その「機械」が神の法則そのものと映っていたプレ近代の独特なニュアンスに注意深くありたいよね、ということが、この展覧会で学んだ最大の収穫。ちなみに藤沢道郎『物語 イタリアの歴史』(中公新書)によると、ダヴィンチとミケランジェロは物凄く仲が悪かったらしく、その背後には深刻な芸術観の対立があったのだそうだ。

レオナルドにとっては、芸術は「探求」であり、その探求の対象は「自然」である。自然の奥深く分け入り、そこに潜む根源的な力と原理の把握に向かうことである。ミケランジェロにとって芸術は「表現であり、表現されるものは「理念」である。自然の素材の中に理念は閉じ込められており、芸術家の手によって解放されるのを待ち望んでいる。自然の素材から余計なもの、粗雑で偶然的な要素を取り除くこと、それが芸術家の仕事である。ブルネレスキに始まり天才ピエロ・デラ・フランチェスコによって完成されたあの抽象的な・数学的な十五世紀美術の空間把握に対しては、両者ともに対立するが、その方向はまったく逆である。(206−207)

さもありなん、という感じ。ともあれ、自然科学的探究の延長線上に「精神の動き」*1をも捉えようとしたダヴィンチの情熱に、感心することしきりだった。

*1:「聖アンナと聖母子」では、キリストはヨハネ?の方に関心を示し、そのキリストをマリアが掴まえようとし、そのマリアに母アンナが「それは(=キリストが犠牲になるのは)神の思し召しなのだよ」と暗示するという、3つの「精神の動き」が込められているのだそうだ。ちなみにこの絵にも、マリアとアンナの脚がどちらのものか判別しがたく描かれるというトリックが隠されている。トリックというより、ダヴィンチなりの自然法則の表象であるが。