一昨年度よりもレベルの劣る高校で教壇に立つHiroumix氏とドトールにて談話。いやはや大変そうだ。
学力の低い生徒に世界史を教えるのは、教師と生徒の双方にとって不利益でしかない、という彼の話であったが、アカデミックな近代知を学習する場として、過半の高校教育はもはや「機能不全」でしかないということか?
しかし、1960年代からすでに高校教育の多様化問題は論議されており、当時は職業教育と普通教育の割合が問題になったものの多様化は定着せず、世間の進学熱を背景に、普通教育を共通尺度とした序列化が進んだのだった。
ところが、経済成長の見込みと世代間学歴上昇が果たされた時代が終わり、普通教育へと動機づけられる進学熱が冷却された昨今では、ふたたび高校教育における教育内容の問題が議論の俎上に乗せられねばならなくなった。
同時にポストモダン社会に特有の諸条件も加わった。かつて近代知の習得は「封建的→近代的」という近代化論のパラダイムによって正当化され得た。しかし、市場経済の領域が拡大し、学校のみが(啓蒙的)社会化の場ではなくなった現在では、市場内部での社会化と、学校内部での(近代知を通じた)社会化とが、むしろ対立する傾向に置かれる。学校が非自明化した。
黒板に描かれたコナンの絵を前に脱力するHiroumix氏が直面する問題は、ここにある。
それでは、かつての高校多様化論議に立ち戻り、高校教育の全面的な見直しを行うとして、それは如何にして可能か?
これは簡単な問題ではない。高校教育にはさらに隠された機能が存在しているからである。
すなわち、高校生の青春のエネルギーは莫大なものだが、これを抑え込む機関としての教育システムの機能が存在する。冒頭で述べたような学習面での機能不全は、必ずしも教育システム全体としての機能不全を意味しない。「なんだか良く分からないが学校や試験に縛られている」という状態は、社会のなかでの目標が定まらず、エネルギーばかりが有り余っている高校生を馴致するのに、好都合な状態である。
したがって、規律訓練的なテクノロジー(あるいはその進化形)をフル活用しつつ、高校生を学校にしばりつけておけば、それだけで立派な機能が果たされていると見ることが可能である(高校教員はそのための尊い犠牲者である)。
とはいえ、それを前提に、教育内容の見直しも別途進められて然るべきだろう。その際、近代知の位置づけをどう考えるか、「市場を通じた社会化」にどのように対抗または適応するかが問題となる。この解答を正しく導くためには、グローバル経済社会のなかでいかなるかたちでサバイブしていくか、という社会のビジョンを得ておく必要がある。民主主義社会の最定位も必要。
・・・というような話。今度は、「一種のパニック状態」とやらのshou氏の職場についても、伺わねばなりません。よろしく。