川島雄三『花影』(1961)

(99分・35mm・カラー)男どもに求められては捨てられた銀座のホステス(池内)が、人生への絶望の度を淡々と深め、ついに自死を選ぶまでを綴った大岡昇平文学の映画化。池内淳子の代表作であり、ヘッドライトに照らされた夜桜のシーンは後期川島メロドラマの頂点ともいえる。
’61(東京映画)(原)大岡昇平(脚)菊島隆三(撮)岡崎宏三(美)小島基司(音)池野成(出)池内淳子佐野周二池部良高島忠夫有島一郎三橋達也山岡久乃筑波久子淡島千景、安達国晴、石田茂樹、藤山竜一、松本染升塩沢とき、中曽根公子、小林美也子

傑作。効果的なライティングが施された様式美に満ちた画面、池内淳子の魔性を帯びた美しさが圧倒的。山本富士子にも似ているが、キスをして顎の辺りに小皺が出来るのに大変萌えを感じた(ヘンタイ?)。
大岡昇平の小説が原作。モデル小説なので、色々な想像してしまう。高島という骨董に詳しい文人が出てくるが、青山二郎のことだと思われる。池部良が演じるのが大岡自身。葉子(池内)は坂本睦子というホステスで、直木三十五坂口安吾菊池寛河上徹太郎大岡昇平小林秀雄など、多くの文人と何ほどかの関係があった人である(講談社学芸文庫の小谷野敦解説の記憶をもとに記している)。
この映画も傑作なのだが、幾つかのテーマがうっとうしく結びついているように思われる。まずは大岡昇平青山二郎への告発。青山はもっともらしい理由で葉子自身を納得させつつ、葉子の幸せを無意識のうちに阻んでいる。葉子に肉体関係を迫らないことによって、純粋で崇高な美という美辞のもとに、そのじつ葉子を精神的に支配しているのである。
次に、大岡自身の自罰欲求。葉子を幸せに出来なかったのは大岡(池部)自身のせいでもある。恋人関係にあったぶん、池部のエゴは直接葉子を苛んだ。葉子の自殺を招いたのは、彼女の美貌を占有し搾取した池部の責でもある。この池部=大岡の自罰感はしかし、直接の接触を避け、より巧妙に搾取を実行した青山二郎への責めへと、一部転化している*1
最後に葉子(池内)の人生。<美しいうちに死んでいく>という葉子の生涯は、葉子の決意とは裏腹に、葉子自身の思いを裏切る結果を招いている。なぜならそれは大岡や青山の人生観の焼き直しにすぎないからだ。「君は結局結婚には向かない人間なんだよ」という青山の言葉は、ロマン主義的な美的審判者の言葉として、葉子の人生を破壊した*2。だが、美のためには生活の破壊も辞さないという「特殊な思想」は、葉子がそれを内面化するだけの価値を本当に有していたのか。それは体裁の良い搾取の言葉に過ぎなかったのではないか。
実際、高島=青山は葉子=池内から幾度となく小遣いを貰っていた。むしろ葉子が進んで渡していたのである。それは金銭的な搾取であり、人間的な搾取であった。だが、美的に崇高な世界の創出という題目の前に、じつは大岡自身も葉子を搾取していたのだ。そのような女の一生をモデル小説として描く営みこそ、大岡による葉子の人生の搾取に他ならないからだ。
葉子が睡眠薬を飲む準備をしているうちに苛立ちを覚えたのは、そうした搾取の構造にうすうす気づいていたからであろう。そしてその苛立ちは、大岡の自己懲罰的な欲求が描かせたものだといえるだろう。
理屈はともかく、素晴らしい映画だった。絶品。

*1:ここらへんの自意識の過剰なねじれ具合が私などには堪らない。池内の人生への肯定性と否定性の入り混じった視線も凄いが、それは大岡自身の自己愛と自己否定がコムプレックス感情となっているからである。

*2:ショウペンハウアーのプラトン評価に見出せるようなロマン主義の美的観念を想起すべし。ドイツ教養市民のエートスなんかも関連する。