アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バベル』(2006)

BABEL 2006年 メキシコ・アメリカ映画 英語他 2時間13分 監督:アルハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ 出演:ブラッド・ピットケイト・ブランシェットガエル・ガルシア・ベルナウ、菊地凛子役所広司
ロッコの片隅で放たれた一発の銃弾がアメリカ、メキシコ、日本の孤独な魂をつなぎ合わせていく。言葉が通じない、心が通じない想いはどこにも届かない。イニャリトゥ監督が映像と音楽の普遍性を言葉に勝ると信じて描いた、愛と痛みに関するヒューマンドラマ!!

飯田橋ギンレイホール。傑作と言わざるをえない。
被造物としての人間を物神化せぬように説いた禁欲的プロテスタンティズムは、旧約聖書の律法的世界観と親和的であったといわれる。人間は愚かな被造物に過ぎないため人間的コミュニケーションに実りは存在せず、超越神との関係は各人ともに個人主義的に取り結ばれる。人間関係内部にではなく人間を超越する部分に生の意味を見出す世界観は、中東地域で誕生し、近代的組織の整備を媒介として合理主義を基礎とする近代社会を成立させた。
…というような学説をちょっとでも知っていないと、この映画を観ても何にも分らない羽目に陥りかねない。この映画では、警察官や国境警備隊など、法的言語を操る人間がたくさん出てくる。法律を操る世界とは、人間同士のコミュニケーションを無価値と見なす律法的世界観の象徴である。この世界では人々は不信感をベースに行動するが、本作品でも、人種差別に根差す非人道的行動原則がしばしば垣間見られる。
しかも法的対応の対象とされる人々が、実際に誰が見ても明らかに愚かな人々なのである。冒頭のモロッコ少年の軽はずみな行動は、嫌悪感さえ抱くほど思慮に欠けた行動でしかない。このように愚かな人々は隔離して社会領域から排除しておくのが合理的なやり方であろう。近代社会に生きる我々はそうして近代からの恩恵を享受しているのである。
それがこの映画で描かれる幾つかの限界状況では、ほんらい利得を期待しえない人間的コミュニケーションに嫌でも賭けざるをえない必要が露呈する。愚かな被造物どうしの関係のなかで、互いに愚かでしかないという限界に直面しつつも、不信を超越し、信頼を与えねばならなくなるのだ。この信頼の付与は、無償の贈与であり、最高度の赦しの行為である。それは世界における絶対的孤立を克服状況と見なし、そこから実存的解放を意志する行為にほかならない。
世界からの絶対的孤立、他者不信のスパイラル。これは砂漠のブラピ夫妻がそうだし、砂漠に置き去りにされたメキシコ女性と子供がそうだ。母に見放され、聾ゆえに音(世界)からの孤絶を経験している菊地凛子もそうである。だが、モロッコの通訳の青年に紙幣を渡そうとして拒まれるブラピの姿に見いだせるのは、人間的コミュニケーションに実りを賭けた人々による、新たな世界の可能性である。貨幣こそ、世俗化された近代組織における神の代替であり、貨幣の拒絶は、超越神の拒絶をこそ意味するからだ。
以上述べたのは理屈だが、理屈がわからないと、この傑作映画の本質は味わえないと思う。コミュニケーションの限界状況とは、じつは近代社会の本質のメタファーだからである。薄気味悪いほどの孤独感を味わうべく、ぜひ作品を観られるとよいと思う。