総論―北野映画

新文芸坐でオールナイト。バイオレンス特集。たけしの映画をまとめて観たいとずっと思っていたので、喜び勇んで馳せ参じた。
総じての感想をいえば、たけしはやはり偉大である。たけしが死と暴力に戯れるのは、生が死との関係でしか意味づけられないという理由によっている。日常性が意味を持つのは、非日常性との関係においてであるし、社会が意味づけられるのも、反社会性との関係におけるエネルギーの方向づけがあってこそだ。
たけし映画において「死、暴力」が「笑い、遊び」と近接するのも、以上の図式に基づき整理できる。『その男、凶暴につき』ではコミカルさと暴力とが連続していたが、『ソナチネ』では「浜辺遊び」が延々と繰り広げられ、「死」の暗示がより象徴的に色濃く示されていた(浜辺遊びは『BROTHER』でも見られた)。
「遊び」「笑い」は「死に規定された生」という意味合いの象徴。いったん構築された「生」・「状況」を「本源的な未規定性」のもとに置きなおす作業こそ、「笑い」であり「遊び」の本質である。
とはいえ、死を飼い慣らし、暴力を飼い慣らすことで、賦活された生を生きることも可能だろう。日常性を更新する作法を内在化し、「遊び」のような無害な形式で生の充溢を体験することは難しいことで決してない(原理的に。というか、みんなそうして生きているわけだ。)。
だが、たけし映画ではこの方向は採られない。たけしはあくまで暴力へと傾斜するのだ。「死にたくなくなると、死にたくなっちゃうんだよ」という『ソナチネ』でのセリフは、「生―死」「日常―非日常」の後者に、たけしのメンタリティーが傾いている証である(このセリフは私は大好き)。
この暴力・死・非日常への傾きに、私としては、社会に蓄積された心的外傷の反映を見ないわけにはいかない。戦後高度成長期における産業社会化が、家族という生の領域の家父長制的合理化を伴うものであったことは常識だが、このような意味での生の手段化・合理化のトラウマは、様々なかたちで歪みをもたらすことになった。その歪みのエネルギーが解放され、解体が極点に達したのは、阪神大震災地下鉄サリン事件の95年である。その後、戦後近代家族イデオロギーは急速に崩壊したが、合理性の過剰追求ゆえの非合理性への反動は、生の回復のための暴力志向を過激なものに向かわせたといえる。
まあ、むりやり社会批評に繋げるのはやめるにしても、人並に死にたいと思ったことは私も何回もあるし、暴力を自分のなかで飼い慣らすことの重要性や、たけし映画のヒーリング効果は、強調せずにはいられない。