ブラッド・バード『レミーのおいしいレストラン』(2007)

RATATOUILLE アメリカ映画 英語 1時間57分 監督:ブラッド・バード 声優:<レミーパットン・オズワルト、<リングイニ>ルー・ロマーノ 配給:ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ
天才的味覚と嗅覚を持つネズミのレミーは、シェフになる夢を見ているが、所詮はネズミの身…が、才能のない見習いシェフのリングイニに出会ったことでグルメの街パリに大事件を巻き起こす。ディズニー/ピクサーの<夢>と<奇跡>のファンタジー!!

ギンレイホール。どれほど金をかけたのか分からないが、すごく面白い。だが同時に、これは人種差別的な発言になってしまうけれど、「黙れ、毛唐!」と叫びたい気分になった。
実際、「ディズニーによるイデオロギー攻撃」の側面が否定できない作品である*1。ネズミのレミーは、他のネズミ仲間とは違って、創造的な料理の才能を発揮する。これは「人間/動物」の境界をめぐるキリスト教的価値観の主張に他ならない。
「ネズミはネズミさ」とたしなめる父親に、“I would like to add something new to this world”と反抗するレミーは、creativeなcreatureとしての人間存在の特別さを全編にわたって証明し続ける。
そのレミーと対照的に描かれるのが、労働を嫌い、がらくたを食べて満足している怠惰で太ったネズミ仲間である。彼らは世界に創造的にコミットすることは決してない。それは彼らが神性を欠如させた「動物」だからである。
だが、真に人間的存在となるためには、神から与えられた「人間的自然」を、神の合目的的秩序に沿ったやり方で発揮することが必要となる。つまり創造性が発揮されねばならず、その限りでの勤労意欲の発揚が認められなければならない。
恐ろしいことに、映画の舞台となる料理店のモットーは、「誰でも名コック Any One Can Cook」である。事実、レミーによって「洗脳」されたネズミ仲間たちは、最終的にレミーに従い、料理に参加することで「名コック」となる。すなわち「動物」から「人間」に脱却することに成功する*2
ここでは「誰でも名コック」のスローガンが「条件付き」のものであること――創造性さえ発揮すれば、誰でも名コック――に注意せねばならない。このことは創造性を発揮しない生物は、ネズミはおろか、人間であっても「名コック」たりえない、つまり「人間」とは認定されない、というキリスト教的基準を意味している。
料理店の悪役オーナーが、店のネームバリューを利用し、冷凍食品による金儲けを企んでいることは象徴的な設定といえる。創造性を発揮しないオーナー店主は、明らかにアラブ系とアジア系が混じったような人種として描かれているが、キリスト教的価値基準を踏み外した彼が「名コック」=「人間」に属することは絶対にありえない。
書いていて怒りが増してきたけれど、うるさい料理批評家(もちろん「神」の表象)を前にうろたえまくっているレミー達を見ていると、神の前で怯え、創造性幻想でがんじがらめになっている欧米人たちの不自由さを、われわれ亜細亜人こそが啓蒙してやらねば、と亜細亜的義憤にも駆られてくる。もはや世界最終戦争しかない*3!?

*1:(笑)

*2:さらに恐ろしいことに、集団救済としてのネズミ族の運命に着目すると、これは明らかにユダヤ教的色彩を帯びたものである。ネズミ族は集団的に改心して救われる。しかもその発端は、銃を振り回す老婆によって追い立てられ、下水道の急流のなかに追いやられる所から始まるのだ。怒れる律法の神が、ネズミ族をディアスポラの民にしてしまう。…って、この連想の繋がり方が我ながら恐ろしい。

*3:とはいえ、この映画のクリエイティヴティーについては認めざるを得ないところがミソだったりする。「黙れ、毛唐!」は負け犬の遠吠えか?