年末の浮かれ気分も手伝って、N響「第九」を聴きにいくという、ベタベタなイベントを決行。指揮者はアンドリュー・リットンというアメリカ人。
それにしても最悪の演奏だった。「混沌に始まり、葛藤を幾重にも重ねて、〈歓喜〉の救済へ」という「第九」の内容は、全く伝わってこなかった。
「他の観客はどう思っているんだろう」と不思議に思ったが、終わったとたん「ブラボー」と叫び出し、けっこう喜んでいる様子。この客にしてこの楽団あり、ということか。
あるいは、「耐えかねた退屈からようやく解放され、ラストで〈歓喜〉の爆発」というイメージが、楽団と観客に共有された「第九」観だったのかもしれない。〈退屈から解放された歓喜の歌〉。「年末行事だし、仕方がないか」とも思うけれど、N響は半分くらい外国人で良いのでは?とついつい考えてしまう。
今日はあまり勉強が進まなかったが、電車の中で読んだ渡辺浩「トクヴィル氏、「アジア」へ」(『UP』1月号)が大変面白かった。
アリストクラシー⇒デモクラシー」というトクヴィルの概念図式からすれば、中国は千年前に「デモクラシー」への移行を果たしたのではないか?と渡辺氏は指摘する。世襲貴族の支配は唐代末に終了し、明朝・清朝では、人間の本性の平等を説く朱子学が正統学説とされた。「科挙」が導入されると同時に、土地が売買され、個人の社会的流動性が高まった。
だがこうした「封建」ならぬ「群県」政体は、デモクラシーのなかの専制を導いた。これはトクヴィル自身にも洞察されていたことである。「群県」概念との関連性において中国の「民主的専制」を把握・理解できるという見方はとても面白い。