トクヴィル

宇野重規トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)を読了。こちらはすっと読み終えた。読書人必読の好著である。
アメリカとフランスを両睨みにしながら、歴史的・思想的にデモクラシーの可能性が検討される。「諸条件の平等」を必然的趨勢と見なすトクヴィルは、「正しく理解された(自己)利益」の可能性を最大限に評価する。「民主的人間」が「いま・ここ」に閉じ込められるのでは?という懸念についても、トクヴィルは「利益」という観念が人々の視野を広げるのだと説く。「たとえ直接的に意思によって徳へと導かれないとしても、習慣によって気づかぬうちに徳へと近づけられる」(146)。もちろんこのような超越的価値の否定的位置づけの背景には、父の書斎で啓蒙思想家の書物と出会い、カトリック信仰への懐疑に直面せざるをえなかったトクヴィルのアンビバレンスが存在する。
最終章でその今日的意義が論じられる部分では、余りの問題の広がりに軽く眩暈を覚えたほどだったが、グローバル化が進むなかで、平等と不平等をめぐる問題がますます敏感に感じられていくという指摘は、妥当なものだと感じられた。しかしアメリカ社会にせよフランス社会にせよ、キリスト教の精神史的背景は厳然として存在するわけで、そうした文化的ギャップを超えて、果たして民主主義がどこまで歴史的必然でありうるのかについては、今なお十分な検討が必要であるように思われる。日本に関していえば、天皇制を失った戦後は「ラディカルな民主主義のためにラディカルな精神的貴族主義が不可欠」との指摘もある。「正しく理解された利益」の問題はよりデリケートに考察されなければならないだろう*1。また情報技術の高度化した後期近代社会において、ラディカルな精神的貴族主義の成立可能性はより限定されているとの理解に立つならば*2、この観点からトクヴィル的展望の可能性を考えることも興味深いかもしれない。

*1:戦後日本の大衆社会化について総括する作業が必要だと思われる。

*2:人間の終焉論。