『論座』

東川端参丁目さんのブログで『論座』2008年3月号「ポスト・ロストジェネレーション」という特集があるのを知り、読んでみた。
そもそもテーマ設定に無理があると思う。某鈴木氏が「ロスト世代のポスト・ロスト世代への羨望」というようなことを書いているが、鈴木氏自身が述べるようにそれは「ロスト世代」の自意識でしかない。その自意識にしても、きわめて薄く特殊なものだ。人をナメた茶番特集である。
だが、「ポスト世代」の座談会発言、高橋源一郎の記事などを観察すると、「ロスジェネ問題を社会問題として語ることへの忌避感」が明らかに存在しており、その点は興味深かった。「これまでのような一部の人間を犠牲にするような、みっともない社会体制ではなく、すべての人が平等に扱われる社会の構築を呼びかけていくしかない」(209)という、赤木氏の主張の存在意義を認める私には、意外なようにも感じられる。
たとえば高橋源一郎は、「…誰もやってくれないから自分でやるしかねえんだよ、というのが『必要』。そういった自分の『必要』は、自分で解決するしかない」と述べ、「生きていくためには、自前の論理が必要で、各人でそれを作らなきゃいけない」と説教を垂れている(214)。

冷たいんですよ。そもそも世界というものは。世界そのものが間違っている。でもしょうがない。世界は存在し始めたときから間違っているんだから。だからそれをどうやって受け入れるかという問題になってくるわけです。(214)

しかしこれは「世界そのものが間違っている」のではなくて、高橋の理解が間違っているだけのことである。世界が冷たいなら、なんで福祉制度は成立してるのだろうか?「誰もやってくれないから自分でやるしかねえんだよ」とヒロイズムに浸っているが、じゃあ何のために政治家はいるのだろうか?知識人は存在するのだろうか?
どうも高橋は、社会に対する基礎的知識を欠いているように思われる。そうでなければ、ご立派な「自前の論理」に酔い痴れている独善家ということであろう。
なお、座談会の発言者A(23歳、慶応卒、広告会社)の次の言葉は、知的ポテンシャルが低い蒙昧な若者の戯言だと笑って見過ごすことにしたい。

べつに、あの人たちにやる気がないのが悪いとは思わないですし、それを育てた親が悪いとか、社会が悪いとも思わない。そういう人たちがいる、だから何?っていう感じですかね。(199)

ポストモダン社会だから社会の見通しが付きにくいのは仕方がない。それで「自己責任論」に傾くのも、凡庸だが、納得はできることだ。(私は単純バカには寛容なのである。とはいえ、ここまで凡庸な精神論が共感されているとは知らなかった。)だが、高橋のような知的産業に関わる人物が、「おれは忙しいから自分のことで精一杯だよ」とか言っているのを見ると、ポストモダンに居直った詐欺師は去れよ!と強く抗議したい気分になる。