佐藤優の思想的問題点

週刊読書人』の小林×佐藤対談を読んで、佐藤優の思想の特質とその限界が分かった。そもそもぼくは外務省の官僚としての彼は知っていても、いつの間にか思想家になってしまった佐藤についてはあまりチェックしていなかった。しかし宇野経済学、マルクス、神学などの道具立てから見ても、彼が「超越・本来性志向の疎外論」を前提にしていることが分かる。さらにこの対談では(超越性による)「近代の超克」ということが一つのテーマとなっている。
だが「近代の超克」という形で問題が捉えられているために*1、「ポストモダン」をめぐる問題意識に浅薄さが見受けられる。たとえば「私はポストモダンというのは近代の超克ではなくて、近代主義そのものだと思っています」という発話が認められるが、このことは、佐藤の思想において「ポストモダン」が正当な位置を占めていないことを窺わせる。佐藤のいう「ポストモダン」思想とは、浅田彰に代表される「ニューアカ」と等値されるものでしかない(と解釈できる)。
だが「ポストモダン」という事態を正当に踏まえるなら、それは「近代の超克」をもたらす「本来的で超越的な思想」を失効させるはずのものであり、「不可能の可能性という形で、上にいる神をもう一回発見する。超越的なところにいる神の感覚、啓示のリアリティーを回復したいと思っているわけです」という佐藤氏のプログラムを脱臼させかねないものである。「本来性」の思考を無効にする「ポストモダン」という現状把握は、佐藤氏には見られない。しかし果たして「超克」が可能な思想的視座など、ポストモダン社会において実現しうるのだろうか?また彼の批判する「新自由主義」は、ただ単に「本来は公共圏に出てくることができないような稚拙な大きな物語」でしかないのだろうか*2?「それは甘いよ」というのがぼくの見解だ。

*1:「近代」とはそれとは異なる思想によって「超克」されうるものではない。近代はその自己展開としてポストモダンを招来するのである。それが自己展開である以上、ポストモダンに「超克」といった主体的ニュアンスは存在しない。そもそもポストモダンにおいては「意味(思想)の無意味化」が進むのだから、それを正当に承認するかぎり「近代の超克」というような言葉遣いはなされるはずがない。

*2:まあ「新自由主義」自体は「あれこれ言わなくても簡単に解決できる問題」でしかないと思うが、しかしそれが曲りなりにも「公共圏」に出てきたのは、ポストモダンと密接に関係があるわな。