McLuhan

宮澤淳一マクルーハンの光景 メディア論がみえる』(みすず書房)。面白い本だった。『外心の呵責(“The Agenbite of Outwit”)』を精読する第一章はおすすめ。

西洋人が神経を自分の身体の外側に出すプロセスを始めたのは電信が最初である。……電信の発明以来、私たちは人間の脳と神経を地球全体に拡張させてきた。その結果、電子時代は実に不安な時代となった。人間は、頭蓋骨を内側に入れ、脳みそを外側に出して耐えている。私たちは異様に脆弱になった。(8)

不安になったり脆弱になったりするのは、電子テクノロジーが私たちの感覚比率(sense ratios)を変容させることによって、理性(rationality)の混乱、均衡の破壊を招くから。

電子文化によって埋め込まれた思考様式は、印刷文化が培った思考様式とはかなり異なる。ルネッサンス以来、ほとんどの手法や手続き(most methods and procedures)は、知識の視覚的な体系化と適用(the visual organization and application of knowledge)に重きをおく傾向が強かった。活字印刷による分節化に潜むこの前提(the assumptions latent in typographic segmentation)が、技能の細分化や社会的な職務の専門化に現われている。リテラシーは直線性に重きをおく(literacy stresses lineality)。直線性とは一度に一個を認識して、手続きを進める方式である。(12)

個人的にはここら辺の議論が一番面白いと思うんだけどな。(「カトリック信者」という観点からの叙述がもっと読みたかった。)

新しく登場した電子メディアのもつ部族化の力(tribalizing power)は、古い口承文化の統合された場や、部族的な結束力と前個人主義的な思考パターンに私たちを連れ戻すが、これはほとんど理解されていない。部族主義(tribalism)とは、一族すなわち、共同体の規範としての閉じた社会のもつ強い絆の感覚である。(13)

global village論はMcLuhanのパトスを想像する分には興味深いし、それなりに重要なことが言われているようにも思うが、突っ込み不足の感はやはり否めない。とくに「反環境を生みだす芸術家」というのはちょっと認識が甘い(混乱している)。
最終章は、McLuhanに影響を受けた前衛芸術家たちの紹介。彼を理解することでこれらの芸術家を理解することができるというのは知らなかった。ジョン・レノンオノ・ヨーコグレン・グールド、マリー・シェーファージョン・ケージ
ただしグレン・グールドは好きだが、オノ・ヨーコに影響されたジョン・レノンには複雑な思いを抱くぼくとしては、これらの芸術運動を評価することはできない。それというのもすべてglobal villageという概念のあいまいさ(とくに「反環境」という概念のあいまいさ)に帰着する。こんなあいまいな概念にユートピアじみた思い入れを託すのはあまり知的なこととはいえない(もっと真面目に整理したうえで受け入れるのなら話は別だが。なお本書の著者は彼の議論のいい加減さをわりと冷静に指摘している)。オノ・ヨーコなんて、たとえ「前衛」の範疇でも「芸術家」に含めたくはない(『ダブル・ファンタジー』は一曲ごとにスキップしなければとても聴けたものではない)。