『サッド・ヴァケイション』の補足

どうにも気になるので補足するわけだが、やっぱり「石田えりの存在感」を考えると、あの映画は「日本的なるもの」についての考察を含んでいると考えてよいのだろうか?つまり冒頭のハードボイルド的なもの(中国人マフィア的なもの)の対極にあるものとして、事実性に乗っかって人々が融和できてしまう、弛緩し切った「日本的なるもの」(家族、運送会社、連れ子…)が批評されていると考えてよいか?
そうするとあのシャボン玉は融通無礙であり、包み込み、膨張もするが、しかし脆く儚い「日本的なるもの」の象徴であると読みとれる。90年代の世紀末的な焦燥は「日本的なるもの」がもたらす忘却にさらされており(例えば、ポストモダン社会における凶悪事件のメディア消費とか)、実際、「(実存次元での)焦燥」はどこかで批評的に突き放されているように感じられる(だからしばしば「笑い」を生むシーンが見られる)。だが、シャボンは弾けて消える。「日本的なるもの」も同時に批評に付され、その脆弱さが嘲笑される――こういうことだろうか?