安田公義『振袖狂女』(1952)

(96分・35mm・白黒)豊臣秀頼の遺児・鶴姫をかくまって豊臣家の再興を狙う弥右衛門を長谷川が演じる。封切り当時、哲学者の鶴見俊輔は、物語の組み立てにおいて多様な解釈を許容する優れた娯楽映画として本作を高く評価した。
'52(大映京都)(出)長谷川一夫(弥右衛門)(監)安田公義(原)川口松太郎(脚)八尋不二(撮)杉山公平(美)角井平吉(音)伊福部昭(出)山根寿子、宮城野由美子、松島トモ子、黒川弥太郎、小堀誠、岡譲二

鶴見俊輔は個人的に評価が下がりまくりなので、ケチをつけてやろうと思って見てみたら*1、「隠れた名作」というべき秀作だった。ただしこれが「名作」であることは、作品のメタ・メッセージを読みとらないかぎり、理解できないように思われる。この映画は明らかに「(偽装)転向」をモチーフとしている。
ひとつの目的(革命)を果たすため、革命家は面従腹背や戦略的な偽装転向を迫られるが、そうした生活のなかにいつの間にか別の「真実」が芽生えてしまって、「そもそもの目的は何だったのか?」「革命を果たすために偽装生活のなかで芽生えた「真実」を犠牲にすることは正しいことなのか?」といった問いが生じることがある。
当局から隠れた「偽装結婚」が、真実の「結婚」となった場合、それが「革命の論理」に整合的であるとは必ずしも限らない。また「革命の論理」のもとに仲間を裏切ることが必要であれば、「革命のために結集されたはずの仲間」という自明性が崩壊してしまう。あるいは革命に邁進するなかで別の現実に触れ、初期の目的にコミットできなくなることだって考えられる。
それぞれの生き方は互いが互いに「偽装」的であるだけに「真実」が見通し難く、それらはもはや、別々の論理に支えられた「真実」であるほかなくなる。したがって「決断」は必然的に個別の論理、つまり「実存的決断」による以外になくなる。
こうした限界状況のなかで、しかし「徳川家康」(=権力)は「老衰」で死んでしまう。結局、革命のための様々な決断は徒労でしかなかったのだ。この「徒労感」の演出がラストシーンでなされていて、これは「分かる人にだけ分かる凄み」を感じさせるラストになっている。御側用人ニヒリズムも凄みがあって印象的。

*1:しかし『限界芸術論』所収の「一つの日本映画論――「振袖狂女」について――」の評論を読んでみたら、やっぱりポイントを外しているように思われた。