チーチーパッパ、予習はしたものの、欠席した前回に妙な進み方をしていたらしく、初めて見る文法事項(完了形)の入った文章を訳せと当てられてアワアワとなってしまった。
「ムダの会」発行「いける本 いけない本」をパラパラ。大澤の『不可能性の時代』、評判悪いなぁ。例えば、「こういう本を読むとーーバカな感想で恐縮だがーー「どう、オレって頭いいでしょ?」といっている著者の顔が思い浮かんでしまう」とは奥武則先生*1。しかし「いけない本」を敢えて挙げるというのも「芸」が要求される行為で、失敗している執筆者も数多い。
土屋賢二「買っても読まない本」(『図書』)に笑う。

わたしの家には買っても読まない本が大量にある。原因は向上心が強いことにある。
暇ができると書店に行くが、そこで本を手に取ると、たいてい読みたくなる。「社会人として経済に無関心でいていいのか」「キリンのことをもっと知るべきだ」「水洗トイレの仕組みも知らないのは恥ずかしい」「砂漠に一人取り残されたときのために必要な知識だ」などと思えてくる。立ち読みしているうちに向上心はつのり、何が何でも今すぐ読まなくてはならないと確信して買う。
有益な本ばかりでは人間が偏ってしまうと思い、息抜き用に娯楽書も買う。教育テレビばかり見ているわけにはいかないのだ。
向上心に燃えて家に帰ってしばらくすると、二つのことに気づく。(1)有益な本を全部読破するには三百歳まで生きなくてはならない、(2)いま自分に必要なのは息抜きだ。
その日は息抜きのために娯楽書を読み、次の日になると向上心はあとかたもなくなり、行きあたりばったり生活に戻ってしまう。……

『図書』では岩下荘一「私の敬慕する先生」も興味深かった。
樋口一葉にごりえ』を読み終える、というか聴き終える。お力のキャラを考えたら、立川談春だったら落語でもやれるんじゃないかなぁ、などと無意味な妄想。そういえば前の日曜、談春師匠がNHKに出演して「桑名舟」って落語を演っているのを見た。

*1:まあでも、こういう批判の仕方は陳腐だし、基本的には禁じ手だよね。逆に言うと、「オレって頭がいいでしょ」と思わずに書かれた本っていうのも、あまり読みたくない気がする。本を書くなんて、そもそもそういう行為なんだから。なお、これは大澤本に対する擁護ではない。